京都 島原「角屋もてなしの美術館」 2008/04/25



JR丹波口駅から少し歩けば島原界わい。


このあたりもいろいろ歩いてみたい興味深いところはいっぱい。


蛤御門(はまぐりごもん)の変に遭い 壮烈な死を遂げた久坂玄瑞は享年25歳!!


京都は上七軒、先斗町、祇園甲部、宮川町、祇園東の5つの花街があるが、かつては島原が江戸期に栄えた花街である。次第に祇園などの方へ花街が移り、最後は角屋だけが残ったという。太夫を抱える唯一の置屋「輪違屋」などが残っている。


幕末、新撰組、尊皇攘夷・・・・


江戸期の饗宴・もてなしの文化の場である揚屋建築の唯一の遺構。


このあたりは風致地区に指定されていないのか、すぐ近くはコンクリートの店などが・・・


美術館として残った角屋。


入ります。


 島原は、我国最初の花街で、当初は二条柳馬場に開かれ、その後六条三筋町に移転し、さらに寛永十八年(1641)にこの地に移転した。急な移転騒動が、当時の九州で起こった島原の乱に似ていたことから、島原と呼ばれています。
 島原には、揚屋と置屋があり、揚屋は太夫、芸妓等を一切かかえず、置屋から太夫等を呼んで宴会を催す場でした。この角屋は島原開基以来連綿と家督を維持守成してきた揚屋です。
 角屋の建物は、揚屋建築唯一の遺構として昭和二十七年に国の重要文化財に指定されました。また、絵などは応挙・蕪村など、当時一流の画人の作品で、特に蕪村の「紅白梅図」の大作は重要文化財に指定されています。
 江戸中期の島原には、俳檀が形成されており、中でも角屋の六代目・七代目の当主は、蕪村・太祇らを師として俳檀の中核として活躍していました。
 幕末には西郷隆盛・久坂元瑞などの勤王志士達が、軍用金調達のため時の豪商を角屋へ招いて会談を行ったところであり、また彼等を探し求めた新撰組が乱舞した場所でもあります。
 このように角屋は、江戸時代の社交遊宴文化の場であった揚屋文化の余香を今に伝えています。


揚屋(あげや)は、現在の料理屋・料亭にあたる。


玄関から大きな台所が見える。




靴を脱いであがる。


ていねいな説明に聞き入る。


床に置く燭台などは防火上危険なため、この八方という照明具が天井から下げられた。


値打ち物!!


当時は現金でなく、すべて掛けのため、帳簿づけ場所。


料理ができたら客室へ運ぶ。けつまずかないように土間と畳は完全に面位置。


客から刀を預かり、この刀箪笥に保管。


ここの天井は見事な網代製。






松の間から庭を見る。


見事な「臥竜の松」


ハラハラと落ちる八重桜が分かりますか?






新撰組の幹部クラスがいつもここで飲み会したという。局長の芹沢鴨は酒が入ると、どうにもならず、大暴れ。近藤勇らはここで芹沢鴨に大酒を飲ませ、ぐでんぐでんに酔わせて屯所へ帰る途中に、愛人のお梅と共に暗殺する。








美術館としては、蕪村筆「紅白梅図」(重文)をはじめとする美術品や調度品の数々がある。


ここでも「源氏物語千年紀」コーナー。鎌倉時代の源氏物語写本も。


2階にも見るべきものが多いが時間が無く、省略。次回に。

ここは揚屋で、この他に、島原遊郭がある。こちらもおもしろいので、次回再度来たい。



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