呉といったら海軍。そして、あの戦艦大和。まず大和ミュージアムへ。 |
「戦艦「大和」は,昭和16(1941)年12月,呉海軍工廠(海軍直轄の工場)で,当時の最先端技術の集大成でありながら極秘裏に建造された世界最大の戦艦です。しかし昭和20(1945)年4月7日,沖縄特攻作戦に向かう途上,米艦載機の攻撃を受け沈没,乗員3,332名のうち3,056名が大和と運命を共にしました。しかし,戦艦「大和」建造の技術は生き続け,世界一の大型タンカー建造だけにとどまらず,自動車や家電品の生産など幅広い分野で応用され,戦後の日本の復興を支えてきました。 10分の1戦艦「大和」は,平和の大切さや科学技術の素晴らしさを後世に語り継いでいます。 |
「パラオ共和国に残された戦争遺物を写真家・田中 正文氏が撮影。 昭和19(1944)年にペリリュー島で激戦が展開されたこの隆起珊瑚礁の島々には,零式艦上戦闘機や徴用船、砲台などが戦後61年を経過した今日もなおその姿をとどめています。 この地を撮影した田中さんの写真をとおして、多くの皆様に戦争の悲惨さや平和の大切さを考えていただきたいと思います。 |
「パラオ共和国と日本 第一次世界大戦終結後、大正8(1919)年の「パリ講和会議」により、パラオは日本の委任統治領として南洋庁がおかれ、多くの日本人が居住。日本人向けの学校や病院・道路などのインフラ整備や、日本海軍関連施設が建設されました。また,先住民であったミクロネシア系の人々に対しても日本語による学校教育が行われ、現在も子どもに日本風の名前をつける人が多く、パラオ語には多くの日本のことばが取り入れられています。 太平洋戦争が始まると、パラオ最大の都市コロールは、日本海軍の重要な基地として北西太平洋方面の作戦拠点となりました。そのため、西方のフィリピン戦線の状況と連動して連合国軍の攻撃対象となり、南部のペリリュー島では、アメリカ軍の上陸による日米両軍の死闘が展開され、両軍ともに多くの戦死者を出し、昭和19(1944)年11月24日、日本軍は玉砕しました。 太平洋戦争終結後の昭和22(1947)年、国際連合の委託により、パラオはアメリカ合衆国の信託統治下におかれることとなります。 平成6(1994)年10月に独立したあと、今日ではODA(政府開発援助)ほか多くの援助が日本から提供されています。 |