台南は年中、夏。人ものーんびりだそう。 台湾には富士山級の高山がごろごろあり、そこでは雪が降りスキーもできるが、平地のこのあたりの人は雪なんて見たこともないだろう。なんてったってお米が年に3回も穫れる3毛作なんだから。 |
台南は17世紀前半にオランダ人が中国との貿易の拠点を築いた地。 17世紀後半に入ると、清との戦いに敗れた鄭成功がオランダ軍を駆逐し、台南の地に明朝の復興を掲げる新政権を築く(1662年)。 それ以来、鄭氏政権が清に破れた(1683年)後も台北に首府が移される(1885年)まで、台南は台湾の文化と歴史の中心となってきた。 |
赤嵌楼は、オランダ人(東インド会社)が台湾南部の権益を守るために1624年に建てた城。 1661年に台湾出身の鄭成功が300隻、2万5千人の兵力でこれを攻撃、オランダ人を追い出すまで30数年間オランダ支配の中心だったところ。 |
延平郡王祠は赤嵌楼と敷地を接していて、台湾を取り戻した鄭成功の業績や遺品を展示してある神社兼博物館のようなところ。 鄭成功の父は台湾人、母は長崎出身の日本人とのことで、現代の日本人が想像する以上に当時の華南や台湾と日本の交流は活発だったことが分かる。 |
かつてはオランダ領として要塞が築かれ、貿易・海防の要となっていた台南。1624年にはオランダ人により城砦が築かれ、現在の「安平古堡」の前身となりました。
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15世紀末、ポルトガル人が欧州から喜望峰経由で東方への航路を発見して以来、台湾の航路的、戦略的重要性に気付いたオランダ・スペインは、それぞれ台南(オランダ)・基隆(スペイン)に、貿易や海防の拠点として要塞を築き、東方への足がかりとしました。 |
台南に拠点を置いていたオランダは、貿易の拠点として1624年に現在の「安平古堡」に当たる城砦「ゼーランジャ城」を築きました。当時は正方形の内城とそれを囲む外城に分かれていたレンガ作りの城砦でした。その後、1661年に明の軍勢を率いて鄭成功が台湾からオランダを駆逐し、「ゼーランジャ城」は、しばらく鄭成功の居城として使われていましたが、後に政治の中心が移り、城内は徐々に寂れていくことになったのです。 |
1871年には弾薬庫として使われていた棟が爆発し城壁が崩れてしまい、もうすでに軍事拠点としての重要性が失われていたこともあり、事故後残っていた城壁のレンガは、他の建築物の建材として転用されてしまいました。そのため、建設当時の面影はすっかり失われてしまったのです。 |
その後、今よく知られている安平古堡は、日本統治時代に税関の宿舎として内城に造られたものです。方形の高台と中央に建てられた洋風の建築物が特徴で、戦後統治が台湾政府に移ってからは、現在の名前「安平古堡」へ改名し台湾一級古跡に指定、また、博物館として開放されています。 |