天正十年(1582)6月2日、明智光秀は、織田信長を京都本能寺に討ちましたが、13日、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、逃げる途中、京都山科の小栗栖の藪で、土民に囲まれ、敢え無い最期を遂げたと言われています。 その深夜、光秀の悲報を受けとった光秀の娘婿、明智秀満は占拠していた安土城から、翌日早朝、坂本城へ陸路で出陣しました。秀満は、途中瀬田唐橋を守る織田方の武将山岡氏に進路を阻まれますが、それを振り切って、大津へ向かいました。 大津を守っていたのは、秀吉軍の先鋒、勇猛でならす堀秀政でした。その軍に真っ向から対決を挑んだ秀満軍は、多くの手勢を失い、窮地にたたされましたが、秀満は、なんとも大胆に打出浜から馬を琵琶湖に乗り入れました。これが後世に名をはせる「明智左馬之介の湖水渡り」です。 そして、なんとか唐崎に上陸した秀満は、めでたく坂本城にたどり着きましたが、堀秀政の軍は6月15日、坂本城を攻めて、激戦のすえ、あの秀麗な天主のあった坂本城は落城しました。秀満は、自分の妻を刺し殺し、腹を十字にかっさばいて、火薬に火を付け、天守もろとも吹っ飛んでいきました。 その壮絶な最期も、江戸時代初期の『川角太閤記』に劇的に書かれています。 |