16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして、朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(朝鮮史では、壬辰・丁酉の倭乱、1592〜1598年)にかかる遺跡である。 |
秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級の代わりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にして日本へ持ち帰った。それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである。 |
『国家安康』は、家康の名前を割る事で呪う意味である (実際はただ国家が安らかに健康に、というだけの意味) 『君臣豊楽』は、豊臣を君として楽しむ。つまり、豊臣家を君主にしようという意味である (実際は君主(帝)と臣(臣民)が豊かに楽しむ、というだけの意味) まあ、家康側のいちゃもんと言われていますが・・・ |
約6・4dにも及ぶ金を使った。方広寺の改修工事は慶長7年より、のべ12年もの日数がかかった。しかもこれらの工事は全て豊臣家の財布で行われていて、これにより豊臣家の財政が一気に傾いたとも言われています |
方広寺は太閣秀吉の肝いりで建立されたが、建立当時日本最大の木製大仏が売りだった。 奈良の大仏よりひとまわり大きかったという。大仏殿の遺構が遺されている。 |