春の天王山ウォーキング 2006/05/20



 JRふれあいハイキングの「春の天王山ウォーキング」を申し込んだ。最後にサントリー京都ビール工場の見学も含まれており、人気ありそう。
 自宅を出る時はまずまずの天気。しかし、電車が京都を通過した時、パラパラと雨が。
 JR山崎の「大山崎ふるさとセンター」に集合まで、本格的に降り出した。
 今日の天気予報は午後は晴れるはずを信じて、なんとかがんばろう。
 大山崎ふるさとセンターの階上は「大山崎町歴史資料館」となっておりまず、見学。秀吉と光秀の戦場となった山崎の資料、千利休の空間 妙喜庵 待庵 (国宝) のレプリカなどあり、見る物は多い。
 しかし、この雨、なんとなくその気になれず、早々に受け付けをすます。
 A.天王山山麓コース
 B.天王山登山コース
       があり、Bコースを予約していたが、この雨では・・・とAコースに変更した。
 10名ぐらいずつ、順次出発。本日は合計300名ほど。


 雨は激しく、みんな折り畳み傘のような貧弱な装備。
 リュックはものすごく濡れ、ポリ袋で包み直すなど、泣けてくる。山道は鉄砲水で、風景、名所を楽しんでいるどころでない。
 写真撮影どころでなく、今日は、どうなるんだろうという雰囲気。
 離宮八幡宮にて。我が国製油発祥の地。
 関大明神社、山崎宗鑑句碑などもかなりの雨の中、早々と通過。


通称、宝寺と言われる「宝積寺」でも、まだまだ雨は激しい。




この三重塔は「豊公一夜の塔」と称し天正十年(1582)織田信長の弔合戦のため、豊臣秀吉が明智光秀と山崎で合戦し秀吉軍が勝利した。秀吉は合戦で亡くなった人の霊を弔むらうため一夜で建立したと言う逸話が今日まで伝わっている。


リュックカバーやズボンなど、雨用の装備をしている人多い。
今後用意したいと思う。



小槌宮 大黒天神


打出と小槌で有名だそうだ。


 養老7年(723)、聖武天皇は太子の時、唐土より龍神が打出・小槌をご招来せれる夢をご覧になられた。
龍神は「この打出と小槌は万宝第一の如意宝器である。これと打ち振り降ろせば、どんな願いごとも叶う。これを祀って人々を利福せしめ給え。」と告げられた。
 神亀元年(724)2月4日即位せられた聖武天皇は御神器を祀るため、奈良より乾(北西)に当る山崎の地に浄地を求められ、行基菩薩に勅令を下され一宇を建立された。
 しばらく後に、天竺より大黒天神をお迎えし、御神器と共にお祀りした。この堂を打出・小槌宮大黒天堂(または、小槌宮、大黒天堂)といい、福徳加持の御利益に浴せんとされる多くの参詣者で賑わっております。



これが打出と小槌


滝のような雨も少しは弱くなってきた。


裏側から見た大山崎美術館。


昨年も来ました。




 大正時代に関西の実業家でニッカウィスキーの創業者である加賀正太郎氏がウィンザー城を訪れたさいに眺めたテムズ川の流れを記憶に英国風の山荘を建設しました。この山荘が美術館の本館です。そしてその隣の新館は建築家安藤忠雄氏の設計によるコンクリートの建物で地中海の宝石と言われています。



昨年の訪問でも雨


雨の庭園


少し小降りになってきた。




手討ちじゃ!






男山を望む。


山崎聖天観音寺




 建立は平安時代、昌泰2年(899年)宇多法王の建立と言われる。江戸時代に入って中興の祖、木食(もくじき)以空上人が歓喜天(聖天)を祀る。
 以後天皇家や将軍家、京や大坂の商人に信仰され栄えたが、禁門の変の余波で焼き払われ、明治に入って住友や三井などの財閥の支援もあって再建された。
 晩秋はモミジやイチョウが美しい。桜もそうだが規模や美しさの割に訪れる人も少なく、穴場と言える。








雨に濡れた石段は危ない。何人かが滑っていた。


あの雨が信じられないほどの青空に。


円明教寺に到着。
最初は広大な敷地だったが、今は、ものすごくせまく。


 創建は奈良時代末期と言われています。最初の名は円明寺でしたが、何時のころからか円明教寺になりました。名前を変えたのは、在所の地名が円明寺なので、「教」を追加して区別したのではないかとの説がありますが、よく分かりません。
 その後一時荒廃したようですが、平安時代の中頃過ぎには、宝積寺などと並ぶ大山崎の有力寺院だったようです。
 鎌倉時代初期に前太政大臣西園寺公経(きんつね)が円明教寺を取り込んだ別荘「円明山荘」を造ったようで、その後九条道家へ、さらに一条実経へ譲られました。
 江戸時代初期には薬師堂が残るだけになっていたようです。



鐘楼つきの門は珍しい。


戦時中、物資不足で鐘は持っていかれてしまった。



京都嵯峨と見まがうような竹林を歩く。




小倉神社の裏に着く。推定500年以上の杉。


 奈良時代の元正天皇の養老二年(七一八)に創建。桓武天皇の平安遷都(七九四)に際して御所の鬼門除けとして祈願され、 文徳天皇の嘉祥三年(八五〇)神階最高住を賜り、以来「正一位小倉大明神」と号したのです。後に醍醐天皇の崇敬きわめて篤く、 延喜の制により式内名神大社に列しました。
 天正年間、豊臣秀吉は山崎合戦(一五八二)のとき、家臣の片桐祐作・脇坂陣内を当社に遣わし戦勝を祈願、 その本懐を達したというので神徳に報いようと、毎年米三千俵を寄進しました。 江戸時代になると徳川氏また山地二十余野歩を寄進したといわれ、明治維新までの旧境内地は六万坪余にのぼりました。







盤座(いわくら)から地磁波が出ているとか。磁石を近づけると狂ったように。






昼食中。


一の鳥居の扁額


正一位小倉大明神の字は小野道風の真筆と伝えられている。

このあと、サントリー京都のビール工場見学へ


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