三橋節子美術館 2007/06/28



まさに、ムンムンムシムシのじっとーとした空気。まだ雨が降った方がマシという梅雨の空。
朝勤務あがりで、近くの美術館へ。


ふだん、なにげなく利用する京阪電車石山駅の1ショット。


浜大津から京都方面の一つ先、「上栄町」駅で降りる。


ここから、長等(ながら)公園への坂道を600m。


この美術館は初めて。


滋賀県を代表する女流画家はもちろん、小倉遊亀(おぐらゆき)である。
小倉遊亀は105歳まで生きたことに比べて、同じ滋賀県出身の女流画家「三橋節子」はまた、別の意味で比較される。




静かなたたずまいに。




ロビーで、始めに、10分ぐらいのビデオを見る。


滋賀出身の三橋節子は日本画家の鈴木靖将氏と結婚を機に昭和43年、京都から大津の長等地区に移り、お子さん2人を育てながら、地域の自然や歴史、風情を題材にした絵を描いていた。
活発な創作活動で幸せな毎日に突然、不幸が襲う。
鎖骨腫瘍のため絵描きの生命線ともいうべき右腕切断の手術を行なう。
絵を描く命の右腕を失い、更に、余命短いことを宣告される。
絶望の中、絵筆を左手に持ちかえ、滋賀県の民話を中心にした数多くの絵を描き続け、ついに、2年後の昭和50年、35歳の若さで亡くなる。
死と向かいあいながら、2年間、左手で描きつづけた大作は、見る者を圧倒し、情熱が込められた絵画が感動的だと評価が高い。
死を悟っていた三橋節子は「くさまお」と「なずな」という二人のわが子に絵本を残す。絵本「湖の伝説-雷の落ちない村」は、35歳の若さでこの世を去らねばならない母親からわが子への最後の置き土産である。


苦しい息づかいの中から「ありがとう、幸せやった」と最後のことばを残して・・・。
家族で最後に行った湖北への旅。みんな、これが最期と分かっていた。
こどもたちへの最後の手紙、夫の描いた臨終時のスケッチなどの実物を見ると、節子の倍も生きて、何も遺せない自分。
やはり、偉大な人は、短い生涯でも、立派な物を残すものだと感じた。






民話「三井の晩鐘」
むかし、子供にいじめられていた蛇を助けた若い漁師に、その夜、若く美しい女が訪ねてきた。実は恩返しにと、人間に姿を変えた湖に住む龍王の娘だった。やがて二人は夫婦になり、赤ん坊も生まれた。ところが、龍王の娘であることの秘密が知られ、湖に帰った女は、泣くひもじい赤ん坊に自分の目玉をくりぬいてなめさせた。赤ん坊はすぐに泣きやんだが、そのうち目玉は無くなり、更にもう一つの目玉をくりぬいて渡す。盲になった龍女は、子供と夫の無事を知るために、毎夕、三井寺の鐘をついてくれと頼んだという。なぜ三井寺は夜、鐘をつくか(晩鐘のいわれ)。
胸をつく凄惨な話に右腕離断、なおも迫りくる死の予感の中で、子を残して死んで行かねばならない自分の心象をこの龍女の思いに託して描いたのだろう。


収蔵品70点のうち、30点ほどを展示しており、少ないだけにゆっくりと作品を感じることができる。


NHKで放送された記念らしい。


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