藤原道長展、福田平八郎展 2007/04/27



今日は展覧会三昧の一日。

藤原道長特別展
(京都国立博物館)










「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」
  平安時代を代表する貴族藤原道長(966〜1027)が寛仁二年に詠んだこの和歌は日本人に良く知られています。私たちが平安貴族の時代として想起するのはこの藤原道長の頃ということができるでしょう。道長は左大臣であった寛弘四年に自ら書写した紺紙金字の経巻を光り輝く金銅製の経筒に納め、大和吉野山のさらに奥、金峯山(現奈良県天川村山上ヶ岳)に登山して埋納しました。この寛弘四年は西暦に直すと1007年のこと。今年平成19年(2007)はそれからちょうど一千年目に当たります。
  平安時代の貴族にとって御嶽詣(金峯山参詣)は大変重要な宗教行事のひとつであり、一生に一度は金峯山登山を志すものでした。江戸時代元禄年間に山上ヶ岳から出土した金銅経筒の中からは道長自筆の経巻が見つかっています。またその経筒の表面には五百字余の願文が刻まれていて、道長が法華経や阿弥陀経・弥勒経などに込めた願いが詳しく説明されています。道長は弥勒が現れる五十六億七千万年後の未来に向けて自らの経巻を残そうとしていました。じつは道長はこの寛弘四年八月の金峯山参詣の様子を自筆の日記「御堂関白記」に詳細に書き残しています。おかげで千年後の私たちが京都から金峯山までの行程を具体的に知ることができるのです。
  山上ヶ岳からはこの道長の経筒以外にも豪華な経箱や蔵王権現の像や鏡像、様々な奉納品が出土しており「金峯山経塚」と呼ばれています。この道長の金峯山参詣と埋経が平安時代後期に日本各地で流行する経塚造営のさきがけとなった点で高く評価されています。
  道長の時代は律令体制から中世への変換点にあたる歴史的に重要な時期とされています。また「枕草子」や「源氏物語」をはじめとする女流文学が開花した時代でもありました。さらに美術的・工芸的にも画期をなす時代でした。今回の展覧会では、道長の「御堂関白記」をはじめ藤原実資の「小右記」、藤原行成の「行成卿記(権記)」など同時代の貴族の日記類や、宋代の仏画・経典・陶磁器など同時代の中国のもの、浄土信仰と末法思想を表す仏画や経典、道長の時代の工芸品や仏像、金峯山経塚関係の遺物や京都周辺の経塚関係資料、道長が造営した浄妙寺や法成寺の跡から出土した瓦など、あわせて約140件を展示します。この展覧会を通じて藤原道長の極めた栄華と願った浄土の様相をご理解いただけたらと考えています。

国宝、国宝、国宝・・・のオンパレード

 国宝 稿本北山抄巻第十

コピー機など無かった時代、写本を作るのも大変だった。
道長の自筆オリジナルなど、日記が国宝だ。



照明効果もあって、この不動明王は迫力があつた。

 国宝 金銅藤原道長経筒

国宝 金銀鍍双鳥宝相華文経箱 

 国宝 金銅宝相華文経箱(叡山横川如法堂) 

中に納められた経巻は、弥勒が下生する五十六億七千万年後の未来へ伝えられることを目指したものという。
これは、気の遠くなる将来へのタイムカプセル。10年後、100年後の地球、人類も見えないのに、なんて、壮大な話だろうか。


福田平八郎展
(京都国立近代美術館)



大分市内に生まれ、画家を志して京都へ出、京都市立美術工芸学校に学んで以来、この地で活動を続けた、文化勲章受章者・福田平八郎(1892−1974)の、ゆかりの地京都での久しぶりの大規模回顧展です。
  東洋の古典に影響を受けた《牡丹》や《閑庭待春》、湖のさざ波だけを画面一杯に描き、写実と装飾が一体となった独自の画風を作り出した《漣》、それに続く《新雪》、《雨》、《花の習作》、《海魚》など、画風の変遷はありましたが、一貫して写生に立脚した花鳥画を描き続けた福田平八郎の初期から最晩年までの作品と下図類を展示し、その全貌を紹介します。

 

ちょっと異色な日本画。鯉など、すばらしい。
氏の作品は晩年になると画風に変化があり、ちょっと私には気にいらない。


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