「菜の花の沖」と横溝正史生誕地を歩く 2007/03/11



 今シーズンの青春18切符はなんと、8000円ということで、早々に手に入れてはいるものの、どこへ行くか決めかねていた。例によって、JRふれあいハイキングのブックから、前日の夜に神戸に決定。
タイトルは「菜の花の沖」と横溝正史生誕地を歩くである。「菜の花〜」はともかく、横溝正史に興味をもった。
横溝正史といえば、江戸川乱歩と並んで、昔読みふけった探偵物である。そうか、横溝正史は神戸出身だったのか。




 JR神戸駅に10時に集合。
早めに着いたので、神戸駅構内をぶらぶら。
年に何度も何度も来ているが、三宮駅で降りるばかりで神戸駅に降りたことがない。



こちらが昔の神戸駅の顔。


往時の駅のパネル展示。

ステンショと云われた時代。


今はとんでもない近代建築も、昔は・・・・


出発前に説明していただく。


この改札にも昔の駅のパネル。


 出発前のオリエンテーリング。
今回は関西文学散歩の例会だそうである。第401回となっているから毎月実施していてもすごいこと。



西国街道を歩いて新開地。


 神戸の中心が三宮に移る以前はここが最も栄えていたところで、芝居小屋や活動写真小屋などいっぱいあった。
「東の浅草、西の新開地」と言われた、旧き神戸カルチャー発展の地。芝居など、まずここにかけてみて感触をつかむんだとか。


 あの淀川長治さんはここに縁が深い。子供のころから新開地で映画を観て育った。
山高帽のチャップリンに見える?


コイケ畳屋さん。この地で横溝正史の生家が薬やをやっていたという。


松尾稲荷神社にて。


鎌倉時代、楠木正成がここに御守りを納めたという記録が残る由緒正しいお稲荷さん。


建物の中に祠があるという珍しい拵え。


おびただしい提灯がぶらさがる。


 戦前ごろまでは新開地の近くにあることもあって多くの商売人や劇場の役者、また元町からも近く中国人なども多く訪れたとされ、数多くの商店などの提灯が並んだ。


 ここで有名なのは、ビリケンさん。左手奥にいらっしゃる。
お稲荷さんとビリケンさんさんが仲良く収まる建物はめずらしい。


 アメリカ生まれの神さまながら、なぜか、俵の上に座り、玉 と小槌を持っている。どうやら大黒様を模してデザインされたようだ。そもそも、このビリケンさん、大正時代に元町の洋食屋の人寄せ人形としてつくられたが、通 りすがりの人達におもちゃのように触られたり、時には叩かれたりして、次第に怒りの念がこもり、恐れをなした洋食屋の主人が、こちらの神社に納めたものとか。


今や、安らぎの場を得て、のんびり鎮座するといった風情。そろえて出した足がかわいい?


恋のおみくじ。もう、縁は無いよ。




住職から説明を受ける。


ここが、あの、一代で日本一にした中内功さんのルーツ。


横溝正史生誕の地碑は川崎重工のそば。



正面(東側) 横溝正史生誕の地  陳舜臣
左側面(南側) 平成16年11月23日
横溝正史先生 生誕地碑建設委員会
東川崎ふれあいまちづくり協議会
建之
右側面(北側) 横溝正史
 明治35年 神戸市東川崎に生まれた。
 大正10年 処女作「恐ろしき四月馬鹿」
 を発表して以来多くの傑作を著した。
 神戸のロマン的傾向を持つ本格的推理
 小説の基礎を築いた。
 昭和56年没
代表作
 本陣殺人事件. 蝶々殺人事件. 獄門島.
 犬神家の一族. 悪魔が来りて笛を吹く.
 八つ墓村. 悪魔の手毬歌










このあたりに横溝正史の生家がありました。


今は、川崎重工の敷地内に入ってしまって正確にはわからないとか。


川崎重工の社員が使う「パトリシア会館」を休日にお借りしたという。


いわれがありそうな・・・・




この船が「スーパータンカーパトリシア号」


 この船を川崎造船が受注。
すばらしい出来映えに感激された船主の奥様が寄贈された謝礼を基にこの会館を建設。
この女性がパトリシアさん。



関西大学の西智規先生から講義を受ける。


「菜の花の沖」は司馬遼太郎。神戸出身の江戸時代の廻船問屋高田屋嘉兵衛の生涯の物語。


昼食のあと、再び、歩き始める。


 神戸の昔の小さな歴史資料館。地元の人がこだわって建設された。
建設開始からいろいろな展示について、ホームページなどもいっぱい。



映画「大地の子」のロケ地であり、作者の灰谷健次郎もここ兵庫区の生まれ。








「菜の花の沖」は竹中直人主演のNHKの連続テレビドラマになった。




またまたお稲荷さん。


高田屋嘉兵衛顕彰碑と巨大な案内板、それと天壌無窮の碑。


一帯は昔は海だった。現在の海まではほんの少し。「海が見たーい」と。


 明治33年から昭和62年に閉校するまで、88年の歴史。
神戸の沈滞は人口減少と学校統廃合にも影響。つらいね。



陸橋で大都市を渡る。


 ま、また、お稲荷さん。この木がご神木らしい。
源平時代の平経俊の供養塔がある。



鎮守といわれるほど、昔は鎮守の森があった。国道拡張で・・・・


高田屋嘉兵衛が献上した灯籠。


大金持ちになると、いろいろ寄贈がある。


この中にも


またまた、ビリケンさんが。松尾稲荷神社と並んで二ビリケンさんとなる。


なんとも、ここのキツネさんはみんな、ガリガリの栄養失調だった。なぜ?




今度は神社です。






次も神社ですが。


七宮神社


この八つを全部行けるといいですね。


ふだん、三宮と言っているが、そうか、三宮神社の三宮か。




懐かしいレンガ造り。


 小樽のようなここよりもちっぽけな港も赤レンガ倉庫がいっぱいあるから有名スポットになっている。
ここも、あといくつか残っていたら、観光スポットになったのに・・・・



メリケン粉の袋会社なんだそうな。


このあたりが、大輪田の泊り


申し訳なさそうに菜の花は咲いてくれてます。








きよもりくん。


 松王丸の話は歌舞伎でも。(サイトから)
平清盛は、何回築いても流されてしまう大輪田の泊り(今の神戸港)を見渡し、いらだたしげにこう叫んだ。平清盛はどうしてもこの大輪田に港を造りたかったのだ。これからの日本は、外国としげくいききをするであろう。その港は、この大輪田が一番よい場所であると考える清盛は、流されても流されてもここに港を築いてきた。
「おお、そうじゃ。生田の森に関所を作り、そこを通る人をのこらずひっとらえ、牢屋に入れておけ。その中から人柱を立てようわい」
さあ、大変なことになった。そんなこととはつゆ知らず、生田の森を人々は通った。年寄り、子ども、男女の区別なくとらえられ牢屋へぶちこまれてしまった。
「助けてくだされ、出してくだされえ」
「わたしは何も悪いことは、しておりませぬ。どうぞお助けくだされえ、えええ」
戸をたたき大声で泣き叫ぶ牢の中の人たち。その声は清盛の耳にも入ってくるが、ただ港を完成させたいとしか考えていない清盛には通じるわけがない。
だが、ただ一人、この泣き声を聞いて胸をいためている人がいた。それは清盛の小姓松王丸であった。年は十七歳。小さいときから香川にいる父のもとを離れ清盛に預けられていた。強い武将になるために。
とてもやさしい松王丸は、清盛からも大変かわいがられて暮らしていた。松王丸は牢屋からの泣き叫ぶ声を聞くに耐えられず、
「わたしを人柱にしてください」
といった。これを聞いた清盛はびっくりした。目の中へ入れてもいたくないほどの松王丸を、どうして人柱に立てられようぞ、と。
「わたしが人柱になれば、牢屋の中の人が全部助かりまする」
熱心に頼む松王丸の心に、とうとう清盛も承知をした。松王丸は経石を抱いて海の底深くへ入っていった。にっこりしながら。
松王丸の心が竜神さんに通じたのか、港はりっぱにできあがった。命をかけて築いた大輪田の泊りは、堺よりも海が深く、上へも下へも道が通じ、後ろに山、前に海といったとてもよい土地にあった。りっぱにできあがった港であったが、清盛はとてもさびしくてさびしくて仕方がなかった。
清盛は朝な夕なに眺めていた淡路島、絵島の美しさに松王丸とよく語りあったことを思い出し、絵島の上に松王丸をお祭りした。港の見える絵島の上に、清盛が心をこめて祭った。














能福寺は兵庫大仏。


兵庫大仏というものを知らなかった。


なかなか美しい。


 初代の兵庫大仏は、第二次世界大戦の敗色濃い、昭和19年5月、金属回収令により解体供出されてしまった。
 平成3年5月、多くの市民の強い要望により、市内の有力企業多数の協賛を得て、実に47年振りに、二代目の大仏様が再建された。これは、真の「民衆立」の信仰大仏である。この二代目の兵庫大仏も日本三大仏に数えられている。




いいお顔です。














あの、神戸事件の。









柳原蛭子神社



なんと、えびすさんの前が大黒さま。


ここです。


最後はJR兵庫駅で解散。お世話になりました。


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