杉原千畝展 命のビザに刻まれた想い 2021/09/23



京都高島屋

緊急事態宣言中、「滋賀に来るな、滋賀から出るな」の現在。
朝勤務を終わり、久しぶりの電車、久しぶりの京都。
異常な暑さの中、鼻までのマスク、しっかり!


京都駅にて、展示パネルのリアル!


「東洋のシンドラー」杉原千畝についてはよく知っているつもり。


生誕120年


高島屋創業190周年でもあり・・・


命のビザ、80年以上前




入場料1200円、休日のためか、かなり観客は多かった!


無料券をもらったので!


入口の両側は千畝が救った命の一覧・・・



ネットにある写真から


「家族写真(後列左 千畝)」(1906年頃)

千畝の学生時代。中学校の同級生に江戸川乱歩がいたのに驚いた。早稲田大学から外務省へ。


「領事館前のユダヤ人たち」(1940年)

1939年、第二次世界大戦、ドイツナチスのヒットラーとソ連が手を結び、ポーランドが二分され、ポーランド、周辺国の人たちの悲劇は映画でも観た。そして、リトアニアの日本領事館に勤めていた千畝は迫害から逃れる多くのユダヤ人難民から日本通過のビザの発行を求められる。本国へ何度も打診するが、許可は降りず、千畝はついに独断でビザを発行し始める。


「ビザ」(1940年)


「ビザ・リスト」(1941年)

ウラジオストックから船で敦賀に渡り、神戸、横浜そして日本から他国へ脱出できて生き残った多くのユダヤ人・家族たちは今、日本、杉原千畝に感謝の言葉を寄せている。


「リトアニアでの家族写真」(1939年)


「千畝の想い/原稿」(1978年以降)

本国に戻った千畝は命令不履行で当然外務省をクビになり、職探しに苦労する。まあ、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語など数カ国語を自由に操る能力から、テレビのバラエティ番組の翻訳などの仕事につくことが出来た。


20年後、突然千畝に連絡が来る。最初にビザ発給を求めた集団の代表5人の一人からだった。日本のスギハラを探していたと言う。


そして、「ヤド・バシェム賞メダル」(1985年)
各国から次々と顕彰が寄せられる。


「杉原千畝が描かれた顕彰切手」

当時のビザを喜んで展示会に提供する人たちのメッセージには、日本に滞在したときの日本人の暖かいもてなし、無事に素晴らしい人生を送り、子孫まで遺せた喜びと感謝が溢れている。


ビデオコーナー


世界各国から・・・


スギハラへの・・・


感謝の・・・


言葉















ナチスはユダヤ人を600万人以上殺したと言う。世界で最も優秀な民族、もしホロコーストが無ければ人類の進歩はもう少し早まっていたに違いない。


会場出たところで、マイセン展。すごい豪華な焼き物、ガラスの作品に驚いた。


本屋にて




映画、ドラマなどでも・・・


久しぶりの・・・四条大橋から












床は開店休業か?










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