「古稀」という言葉は杜甫の詩にある「人生七十古来稀なり」に由来する。 七十歳というすごい長生きができることは稀(まれ)なことという意味だが、現代では平均寿命がすでに八十代に達しており、実感が無い。 少し前までは、医療が進んで簡単には死ななくなったから平均寿命が延びたんだと思っていたが、いやいや、みんな元気、まだまだ仕事もできるし、頭もしっかりしている。 さて、数えでいうのか、満でいうのか分からないが、1946年2月15日生まれは本日で満70歳、つまり「古稀」なんだろう。 自分が70歳なんて全く信じられないが、子どもたちや孫を見ると納得せざるを得ない。 若い人たちにはどう見えているか、自分が若い頃の七十歳は一般に人生最期まじかの、ものすごい年寄りだった。 学校の同級生、会社の友人には既に冥土に旅立った人も多く、現在も現世に留まっている自分は運がいいというべきか。 それでも深刻な持病を持つ自分は平均寿命までは無理かも知れない。とすると、あと、1桁年?。 癌告知で余命?年の宣告を受けて最期の人生をどう生きるか?という話があるが、よく考えると、まさにそのようなもの。 |
その日暮らしで時を流していて良いのだろうか。身の回りの整理、社会への後始末など。 人生の期間に世界中を旅行したり、美術作品、文芸作品を後世に遺す人も多い。 昔の人はそれほど寿命は長く無かったため、誰もが生き方を凝縮し、中味の濃い人生を送ったのでは無いか。 多くの偉人が五十歳前に逝くも、歴史に大きな業績を残している。 さて、自分は全く何も遺さず生涯を終わるのだろうか。 せめて、小説の1編でもものにしたかった。起業もできなかった。 母は闘病の末、六十八歳で亡くなったので、親を超えたことが唯一の親孝行か。 死んだら全てが終わり。人間全てに訪れることであるが、それがこれから十年以内に来るのか。 猛烈に早い一年を感じながら、これから何をすれば良いのだろうか。 四国遍路もやってない。タジマハールもギアナ高地もイタリアだって行っていない。 古稀の機会に考えるべきことだと思うが、やっぱり、流れているだけ・・・ 10年後はこうしてパソコンの前に座っていられるだろうか・・・ 2020年のオリンピックは観られるのかなど、何か、焦るなあ。 |