京都にとって琵琶湖の水を引くことは昔からの夢でした。第3代京都府知事となった北垣国道は,明治維新による東京遷都のため沈みきった京都に活力を呼び戻すため,琵琶湖疏水の建設を取り上げました。疏水の水力で新しい工場を興し,舟で物資の行き来を盛んにしようという計画です。 |
福島県の安積疏水の主任技師南一郎平に琵琶湖疏水計画の調査を依頼し,大津京都間の測量を島田道生に命じ,東京の工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎を土木技師に採用するなどの準備を進めました。 |
予算の原案は当時のお金で60万円でしたが,政府からもっと念入りな工事をするようにとの意見が出て,工事予算は125万円になりました。議会は市民に税金を掛けてでも計画を進めると決定し,明治18(1885)年に着工しました。 第1トンネルは長さが2,436メートルもあり,完成を危ぶむ人が多く難工事でした。わが国で初めて竪坑利用による工法を採用し,れんが,材木も直営で生産し,ほとんど人力だけで工事をしました。 |
琵琶湖疏水は着工から5年後の明治23(1890)年に完成しましたが,水力発電を採用したおかげで,新しい工場が生まれ,路面電車も走り出し,京都は活力を取り戻しました。それから20年後,更に豊かな水を求めて第2疏水を建設し,同時に水道と市営電車を開業したことで,今日の京都のまちづくりの基礎ができあがったのです。 琵琶湖疏水は今も京都に琵琶湖の水を供給し続けています。 琵琶湖疏水はまさしく京都に命の水をもたらしてくれているのです。 |