野路の玉川は、平安時代末(12世紀)から有名になった歌所で、萩の玉川とも言われ、日本六玉川のひとつとして知られています。野路はまた鎌倉時代、有名な宿駅でもありました。 |
高野の玉川 紀伊-毒水 和歌山県高野山 卯花の玉川 摂津-卯花 高槻市三筒枚 井手の玉川 山城-山吹 京都府井手町 野田の玉川 陸奥-千鳥 宮城県塩釜 調布の玉川 武蔵-調布 東京都北多摩郡 野路の玉川 近江-萩 草津市野路町 |
平安、鎌倉時代の東山道沿いに位置し、往来の旅人たちも、秋には「詩に詠まれている、野路の篠原(現在の平野)」あたりを越えると、一面になみいる萩の花の景観を堪能したことと推察されます。 |
「あすも来む、野路の玉川萩こえて、色なる波に、月やどりけり」という「千載和歌集」所載の源俊頼(平安末期の歌人)の和歌。 |
江戸時代に九州肥後の殿様が、参勤交代で行列しているとき、道脇に土下座していた母親と四歳の男の子の前に1匹のカブト虫が飛び出したそれを捕ろうと思い、行列の侍にぶつかり『おのれ百姓の分際で、殿のお籠先をけがす不届きものめ』といって、腰の刀を抜くが早いか、いきなり二人を切り殺してしまった。村の人々が哀れな二人の供養のためにと、お地蔵さんを刻んでその辺りに祭り供養するようになりました。 |
奈良時代の高僧・行基が729〜749年頃に創建したとされる「野路寺」が常徳寺の前身であると考えられている。 |
江戸時代、野路の観音堂池から、かつて火災にあって池に沈められたと伝えられる黒こげの観音像が発見された。 |
観音堂は平成13年に観音像とともに解体・修復された。 |
南草津病院を営む遠藤勉医師宅の庭には、平家の悲劇の若武者・平清宗の胴塚(五輪塔)がある。 |
清宗は父・宗盛とともに源平最後の合戦・壇ノ浦の戦いで源義経に捕らわれ、鎌倉から京都への帰路、この地で首を落とされた(享年わずか17歳)。首は六条川原に晒されたが、当地に胴が残ったため胴塚が建てられ、約820年を経た今でも遠藤家によって懇ろに保存供養されている。 |
江戸時代前期の承応2年(1653年)、当地の念仏篤信者・遠藤権兵衛が剃髪し僧となり、敷地と田畑一町歩(約3000坪)を寄進、開山上人に清誉浄雲和尚を迎えて建立した。以来、49代に渡って法灯が連綿と継承されている。 |