映画「八日目の蝉」 2011/05/16



しばらく映画のレポートは止まっているが、その後もすばらしい映画に出会ったことは無いことは無い。


今日の映画は「八日目の蝉」。この映画は小豆島が舞台になっている。
小豆島は孫に会いに年に数回行くことでちょっと書いてみたくなった。


 不倫相手の男に子供が生まれ、ちょっとしたはずみで家宅侵入。そこにはたまたま一人残されたあかちゃんが。希和子は思わず連れ去ってしまう。もちろん犯罪であるが、希和子が突発的に誘拐してしまった情況がなんとなく納得。


 赤ちゃんを薫と名付け、子供の育て方も危なげに必死で育てる。女一人の力ではなかなか難しく、カルト的な集いの中で子供たちと生活していくが、やがて警察の手が。すんでのところでカルトを脱出、カルト内の友達の紹介で小豆島への旅。小豆島で働きながら女の子を愛情いっぱいで育てる。


 島内の村行事(虫送り)に参加する二人の写真が新聞に載り、やがて警察の手が来ることを予感する。


 島を出たくないとむずかる薫を引き連れ、小豆島を脱出しようとするが既に希和子は薫との別れを覚悟していた。町の写真屋で4年間の母子を清算して最初で最後の写真を撮る。希和子の心境・・・。


港の前で、4歳の薫には訳が分からず、警察に逮捕される<母>と引き離される。


 それから20年。元の両親の元に戻っても薫(本来の名前は恵理菜)は父母と別居している。恵理菜は幼い頃自分を誘拐したという憎い犯人の女性を想うことはない。そして、父母にも決して心を開かない。本当の母も気が狂いそうに苦しむことになる。


そして、近づいてきたジャーナリストの千草に誘われ小豆島へ。


 「自分は確かに、ここにいたことがある」恵理菜は幼いころの記憶、希和子に愛情こめて育てられたことを思い出したのだ。


 以前、NHKで、すでにドラマ化されているがそれを観なかった。誘拐された子供も、犯人も、本当の両親も全てが不幸。こんなことはあってはならない。人は誰も4歳のころなんて覚えていない。というか、何かのきっかけでもないと決して思い出すことはない。いずれにしても、子供は3〜4歳までに愛情いっぱいに育てられることがいかに大切かを感じる。

Yahoo映画から

解説:
 誘拐犯の女と誘拐された少女との逃亡劇と、その後の二人の運命を描いた、角田光代原作のベストセラー小説を映画化したヒューマン・サスペンス。監督は、『孤高のメス』など社会派エンターテインメント作品で定評のある成島出。誘拐された少女の大学生時代を井上真央が演じ、愛人の娘を誘拐する女性に永作博美がふんするほか、小池栄子や森口瑤子、田中哲司など実力派俳優が勢ぞろいする。

あらすじ:
 子どもを身ごもるも、相手が結婚していたために出産をあきらめるしかない希和子(永作博美)は、ちょうど同じころに生まれた男の妻の赤ん坊を誘拐して逃亡する。しかし、二人の母娘としての幸せな暮らしは4年で終わる。さらに数年後、本当の両親にわだかまりを感じながら成長した恵理菜(井上真央)は大学生になり、家庭を持つ男の子どもを妊娠してしまう。

「八日目の蝉」親の幸福追求にさいなまれた娘の魂は癒されるのか
 まず脚本の妙に引き込まれる。母と娘を描いた原作の2部構成に大胆な改変を施したのだ。不倫相手の妻の赤ん坊をさらった希和子(永作博美)が逃亡を繰り広げる発端が過去へと追いやられ、冒頭に配されたのは、彼女が法廷で裁きを受ける場面。必死の歳月はいきなり総括され、業を抱えて成長した娘・恵理菜(井上真央)の視点に比重を寄せたドラマであることが強調される。冷え冷えとした娘の現在と温かな母の子育ての過去。カットバックされ交互に描かれていくことで、恵理菜の記憶にはない思い出が手繰り寄せられていくかのような効果がある。そしてあぶり出されてくるのは、母性というものの底知れぬ偉大さ。さらには、娘にとっての幸福な原風景が、本来憎むべき相手と無条件で愛し愛される関係の日々だったという大いなる矛盾。罪深き聖母ともいえる永作博美の表情には凄みさえ感じられ、逃亡の地・小豆島の美しき風景は愛情に満ち溢れた人生の結晶としてきらびやかに輝いている。これは、親の幸福追求にさいなまれた娘の魂が、過ちを繰り返すことなく癒されるかと問う、漂流の物語である。7日で世を全うするという蝉にとっての終末後――虚ろな時間はプラスに転化できるのか。何よりも欲望を優先させてきた結果、この国のあらゆるものが溶融していきそうな終わりの始まりを生きる今、喪失の悲しみを抜け出す糸口が、この物語にはあるように思えてならない。恵理菜の苦悩がいかにして鎮められるかを目撃し、希望の在り処を見出したい。(清水節)(eiga.com)

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