泣きたくなるほど、おもしろい 河鍋暁斎−近代に架ける橋− 2008/04/16

京都国立博物館



昨日の好天に比べ、今日の公休日はどうもしっくりしない天気。春の天気は長く続かない。


京都に来てみるも、観光案内所の「桜だより」はもはや・・・


国立博物館まで歩いてくる。


平日はさすがに少ない。


この「見事な」桜も完全に緑の葉だけに。


「暁斎」って誰?


「泣きたくなるほど」おもしろいという画家をぜひ。


わくわく楽しみ。

 河鍋暁斎(1831〜1889)は、はじめ浮世絵を、次いで狩野派を学び、幕末・明治期の江戸・東京で活躍しました。そのユニークな画風は特に海外で関心を呼んできましたが、暁斎の全貌を伝えるような大規模な展覧会は、これまで開催されたことがありませんでした。

 京都国立博物館では、伊藤若冲、曽我蕭白と、近代絵画の強烈な個性を紹介してきましたが、今回河鍋暁斎は、そのラインナップに加わる画家。単なる奔放ではない、基礎的修練の上に強靭な個性が、私たちの心をとらえてはなしません。

 展覧会では、暁斎没後120年を記念し、初期から晩年にいたる暁斎の肉筆による重要作品を選りすぐって紹介します。あっと驚く奇想的な作品はもとより、暁斎の骨格を形づくった狩野派的側面をしめす作品もあわせた、はじめての体系的な展示となります。

 河鍋暁斎は、幕末・明治の激動期を生きた画家です。世相を鋭く批判した戯画・狂画や、妖怪画で有名ですが、伝統絵画をはじめ、あらゆる絵画を描きこなす卓越した技量と、独特で力強い作風は、国内外で高く評価されています。

 暁斎は、天保2年(1831)、下総国古河・石町の米商亀屋に生まれました。翌年家族とともに江戸へ移りましたが、幼少のころから絵に親しんだ暁斎は、7歳で浮世絵師・歌川国芳の門に入り浮世絵を学びます。
その後、10歳で駿河台狩野家の前村洞和・狩野洞白陳信に師事し狩野派の画法を習得、19歳で「洞郁陳之」の号を授かりました。しかし、師の洞白が亡くなると狩野派と疎遠になり、安政5年(1858)ころより生活のために戯画・狂画を描き始め、「狂斎」と号するようになります。

 暁斎は、酒好きで知られ、奇行や逸話の大変多い画家ですが、この狂斎時代に、ひとつの事件が起こります。明治3年(1870)上野不忍弁財天境内での席画会で、酔って描いた風刺戯画が問題視され、逮捕・投獄されてしまったのです。翌年五十笞の刑を受けて放免となりますが、暁斎にとってこの事件はかなり堪えたらしく、以降、「狂」の字をやめ、号を「暁斎」と改めました。

 狩野派から浮世絵、漢画、洋画など様々な絵画を研究し、独自の絵画世界を展開させた暁斎は、明治14年(1881)の第2回内国勧業博覧会に出品した「枯木寒鴉図」で妙技2等賞(最高賞)を受けるなどその実力を発揮、大家としての地位を確立します。

 晩年まで多岐にわたる絵画を精力的に描いた暁斎ですが、明治22年(1889)胃癌のため59歳でこの世を去りました。



絵葉書を3枚購入、スキャナで撮った。







同じ期間、やはり暁斎特集。なるほど、まんがミュージアムでも開催。


「このまま、こちらも」と思ったら、なんと、本日水曜日が定休。普通は月曜日が定休ですよね。まあ、期間中に必ず来ます。「暁斎展」はあまりよそではやってないとか。マンガミュージアム側も見る計画で宿泊で京都まで来るファンもいるという。


とにかく、すごい衝撃。自分の好みとしての展覧会としては年に1・2回というところ。
曾我蕭白、伊藤若冲に続き、河鍋暁斎は、自分の注目画家の3人目に登録する。


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