雨森芳州庵 2007/11/18



 かなり遅くなり、周遊バスも残り3便。最後にどこへ行くか。バスに乗ってから運転手さんと話し、芳州庵なら16時までだが、入ってしまえば大丈夫。普段、周遊バスの無い時はタクシーでしか来られないところだから、行った方がいいよと。それなら。


高月町雨森は芳州先生を誇りとしている。


巨大なイチョウを目印に。


この裏になります。





雨の中、特に流れの速い小川に水車が回る。





こっちだ。


雨森芳州庵

 朝鮮文化に造詣の深かった江戸時代の儒学者
  雨森芳洲は朝鮮外交に尽力した江戸時代の儒学者です。寛文8(1668)年、この地に生まれた芳洲は、18歳で江戸に出て木下順庵の門に入り、儒学を学びました。その後、師の推挙で対馬藩に仕え、生涯を文教と朝鮮事情・文化の研究に費やします。特に、2度の朝鮮使節来日の際は、応接と外交の補佐に活躍したと伝えられています。
 著書にも朝鮮関係のものが多く、『交隣須知(こうりんすち)』やハングル語を翻訳した『全一道人(ぜんいちどうじん)』などが知られています。
 昭和59年、郷里の生家跡に「雨森芳洲庵」が建てられ、芳洲の遺品、著書、文献などが一般に公開されています。また芳洲庵は、「東アジア交流ハウス」とも呼ばれ、東アジアの各地に向けて、湖北の風土と文化を伝える拠点としても利用されています。




何人かのお客があるらしい。


 先日、NHKハイビジョンで「朝鮮通信使」の特集があり、雨森芳州という人について予備知識はあった。
滋賀県では少なくとも名前は知っているが、他県の人は、名前さえ知らなかった人は多いだろう。
 韓国大統領の来日で天皇陛下への挨拶の中で日韓交流の礎になった例として、韓国通信使の対応をした雨森芳州の話が出て、これで、この近江出身の偉人が全国区になったのである。






朝鮮通信使の服装。



小説、歴史書、多くの資料など。









朝鮮通信使のサイト




全12回の朝鮮通信使の記録。


韓国からの記念行事で訪問があった記録。




韓国の学生も多く訪問している。


韓国人向けのパンフレット。


中はハングルばかりです。


朝鮮通信使はこのルートを通り江戸まで。各地宿泊地では最大限の歓迎をした。


宮中晩餐会での盧泰愚大統領の話に雨森芳州の話が出たこと。






司馬遼太郎も書いている。


館長の説明。ここが好きなんやなぁ。


天川命神社。滋賀県一の大銀杏。

寒い、冷たい雨の降る中、最後の周遊バスで高月駅まで、運転手さん「明日は雪だな」

前 鶏足寺、石道寺


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