大池寺・石塔寺 2005/06/12



最初に、大池寺を訪れたのは、35年前。
年齢のわりに、日本庭園に誘惑され、京都の詩仙堂、等持院ほか、あちこちに出没していた。
滋賀県では、水口名坂の大池寺で、小堀遠州の名を知ったものだ。
そういう面で、大池寺は、自分の日本庭園好きの原点かもしれない。
最後は、小さい子供を連れて、25年前。このたび、まさに久しぶりに、大池寺を訪れる。



大池寺は、今から約1250年前、天平年間(729〜784)諸国行脚の高僧、行基菩薩(668〜749)がこの地(現在の滋賀県甲賀郡水口町名坂)を訪れた際、日照りに悩む農民のため、灌漑用水として、「心」という字の形に4つの池を掘り、その中央に寺を建立し、一彫りごとに三拝したという「一刀三礼の釈迦丈六坐像」を安置したと伝承されている。当時の文献は、何一つ、残されてはいないが『甲賀郡志』『水口町志』によると、寺の名を「邯鄲山青蓮寺」といい、山内寺院は八ヶ寺を数え、七堂伽藍の備わった、天台宗の寺であったという。その後、鎌倉期に禅宗が日本に伝わり、東福寺開山聖一国師の孫弟子である、無才智翁禅師が、この地を訪れて青蓮寺を禅宗に替えた。約750年前のことである。室町時代を経て安土桃山時代に入り、天正5年(1577)に戦国の兵火に遭い、境内全域が焼き払われ、七堂伽藍はことごとく焼失してしまった。しかし、不思議にも行基菩薩の作なる仏像のみ焼け残り、その後約90年間、草庵に、安置されていたとはいうものの、風雨にさらされた状態であった。寛文7年(1667)京都花園妙心寺の丈巌慈航禅師が当地を訪れた際、草庵の仏像を見て、寺の再興のため住山の決意をしたという。又この時、山号寺名を「邯鄲山青蓮寺」から、周囲に大きな池があるのに因み「龍護山大池寺」と改名したのである。以後大池寺の再興に尽力し、寛文10年(1670)に仏殿、庫裡が完成した。その時に多額の浄財を寄進したのが、後水尾天皇、伊達宗房や織田主水正信である。中でも織田主水正信は、当地の地頭で、織田信長の甥にあたり、大池寺再建のため多くの寄進をし、大池寺の開基となった。現在も、開山堂横に墓石が祭られている。大池寺の寺紋は、この様ないきさつより、織田家の家紋である「織田モッコウ」となっている。


山門。道の両側にはくちなし。白い花が咲く頃には甘い香りが。
前日の大雨のきっかけとして「梅雨入り」。そして、今日は快晴。まさに、コンディションは最高の日となった。


鐘楼


仏殿。中には、りっぱな仏像がある。


石だたみもすがすがしい。


開山臥龍の松。松の枝の伸びる時間と人間界の時間のギャップ。

蓬莱の庭




大海の波に浮かぶ宝船


さつきの大刈り込み


先祖代々に渡り、不断の作業で何百年と、このような刈り込みを伝え、続けている。
どのようなマニュアルで伝わってきているのだろうか。




【 蓬 莱 庭 園 】

この蓬莱庭園は江戸初期寛永年間に小堀遠州の作として伝えられサツキの大刈り込み鑑賞式枯山水庭園です。書院前方正面の二段刈り込みと左右の大刈り込みは大洋の大波小波を現し白砂の水面上に刈り込みを以て宝船を浮べ中に七つの石と小さな刈り込みで七宝と七福神を象徴しています。又、縁先右側には刈り込みによる亀島を、中央には礼拝石が配されています。書院後方茶室の前庭は、築山枯山水にて蓬莱山と称し、石組に数種の灌木とサツキは恰も友禅模様の如く実に華麗なる眺めであり、8.9月ともなれば刈り込みの線条美うるわしく幽雅流麗の様はこの庭園の美しさを味わうことが出来ます。秋は背景の紅葉に彩られ赤、緑、白、三色配合の美、最も美しく冬は紫褐色に変じて閑雅静寂、茶人の好む庭園となり、まさに「静中の動」とも言うべく禅味豊かな作者の非凡さを窺うことが出来ます。尚、当寺は天平年間行基菩薩の開創の地で境内の周辺には雄大なる心字の池があり、蒼樹碧をたたえ風光明媚にして千古の霊跡を物語っています。



花の観賞として、もっとも良いタイミング。


春、夏、秋、冬の全てに趣ある見事な風情を感じることができる。


土蔵と蓬莱山。白い土蔵が庭を明るく照らす。


井戸も美しい。


仏殿の窓から、山門を望む。昔、くちなし満開の時に来たことがある。

大池寺内には、本堂・庫裡・茶室・隠寮・書院・鐘楼・土蔵・弁天堂などがあるが、中でも本堂は、大池寺再興以来、当時のままを保ち、それは禅宗建築における仏殿様式で床は瓦敷きとなっている。昭和60年(1985)に、本堂屋根の修復工事を行った際、瓦より建立寺の年代を示す刻印が発見できた。又、屋根板には当時の寄進者の祈願が記されていた。この工事で、本堂西側に隣接し開山堂を増築したのが唯一の変化である。又、庫裡においては昭和25年(1950)に、大改築、修理を行った。龍巌月泉和尚が、昭和12年(1937)に住山するまでに、住職不在の期間があり、また庫裡も建築以来、それまでは手が加えられておらず、当時の建造物は葦葺きの大屋根で建物の崩壊は、はなはだしく、いたるところに雨漏りや壁落ちのある惨憺たる建物だった。書院前庭の江戸初期、小掘遠州作と称される枯山水庭園はじめ、境内いたるところに風情ある庭があり、四季を通じ自然の移り変わりを楽しむことができる。


庫裡、茶室、書院など、各部屋を巡る。


隙間から覗く蓬莱庭園は思わず、はっとする美しさ。


水琴窟。
流水を利用した音響装置。地中に伏瓶を埋めて空洞を作り、そこにしたたり落ちる水音が反響して琴の音色に聞こえる。




毎日、何回も説明をされる。数十年前にもお会いしているのだ。


外の枯山水。これは以前は無かった。


心字の池を歩いてみる。


あじさいがそろそろ咲き始めている。


睡蓮と、沈み鳥居。




森林浴。緑の中をひとまわりすると、いい運動に。

石塔寺


ついでに、石塔寺へ足をのばす。


こちらは、静寂に包まれ、多くの石仏に迎えられる。


いきなり、はるかに続く石段。


石段の両側にも。

前方に布引山(ぬのびきやま)(261.9m)が横たわっている天台宗寺院。阿育王山(あしょかおうざん)という山号で、開基は聖徳太子によると伝えられています。山門の入口に「阿育王山」の額が掛かっており、赤松林の中の石段を登ると特異な形態をした三重石塔がそびえ立ちます。そして広場一帯を、何万という数の五輪塔や石仏の群が埋めつくしています。三重石塔は、奈良時代前期の作とされ、三重石塔としては日本最古・最大のもので国指定の重要文化財です。屋根は緩く膨れており、塔身は縦長、一番下の塔身は二枚石を合わせ、上部の安定をはかっています。三重塔東側の五輪塔2基とその横にある宝塔も、国指定の重要文化財です。
 寺伝によると、釈迦入減(にゅうめつ)後100年、阿育大王(あしょかだいおう)がインドを治めたとき仏法の興隆を願って8万4千の塔婆(とうば)を造り、それに仏舎利(ぶっしゃり)を納めて三千世界に撒布しました。平安時代、唐に留学した寂照(じゃくしょう)が近江国にもその1つが埋まっているとと聞き、日本へ向けた手紙を紙を木箱に納めて海中に投じました。3年後にこの箱が明石浦に漂着し、掘り当てた塔がこの阿育王塔であるといわれています。鐘堂前には「かれ野山父はは恋し 石の塔」という句碑があり、大小さまざまな石塔や石仏の表情に昔からの信者の願いが偲ばれます。




巨大。国の重要文化財。


周囲の石仏は圧倒的。




タイなどにもこのような風情はあった。


とにかく、すごい。8万4千も。誰がどのように数えたのか。


こんにちは。


いろいろの動物がいるのは、人間にもいいところの証拠。




カラーって名前だっけ。


山門。


本堂


緑が映える。


歓迎ありがとう。また、来ます。


愛東マーガレットステーション


花、メロンなどで有名。




美しい山野草を見る。


トマトを買って、その場で食べた。スーパーなどでは手に入らない、おいしい。


とりあえず、無難な「ミルク」にしたが、お米のアイスクリームも試してみたかった。




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