仕事の記録
入社以来、39年、波瀾万丈の仕事の歴史を思い出しながら、記録してみます。
ご興味あれば、お読みください。
(東レおよび東レ関係会社以外はできるだけ実社名は省略しています)
目次
1.入社まで
2.入社(昭和39年)
3.合成繊維の現場経験(昭和39-1964-年〜)
4.コンピュータとの出会い(昭和44-1969-年)
5.IBMのメインフレームとの出会い(昭和45-1970-年)
6.工場コンピュータシステムの開発(昭和46-1971-年〜)
7.システム部へ(昭和58-1983-年)
8.オプチカル製造システムへの参画(昭和58-1983-年〜)
9.社外システムの担当(昭和60-1985-年)
10.社外のシステム中心に担当(昭和60-1985-年〜平成6-1994-年)
11.東京長期出張(平成6-1994-年〜7-1995-年)
12.東京本社へ異動(平成7-1995-年)
13.放射線管理システムの営業(平成8-1996-年〜)
14.環境システム課として(平成10-1998-年から)
15.滋賀へ戻る(平成13年-2001-から)
16.環境関係のパッケージと中之島三井ビル(平成14-2002-年)
業務の記録まとめ
1.入社まで
滋賀県彦根市、工業高校の工業化学科を卒業。
滋賀県では、石山を発祥の地とする、東洋レーヨンがもっともメジャーな就職先でしたが、あえて、大阪の武田薬品工業を受験。不採用。
4歳で父を亡くし、障害者の母を持つ人間に対する不安がその理由だったと聞きました。 |
2.入社(昭和39年)
挫折の中、やっぱり、周囲の推す、東洋レーヨン株式会社滋賀工場に昭和39年3月16日に入社しました。このころは、「東洋レーヨン」という社名でした。みなさんは信じられないでしょうが、当時、この会社は、絶好調で、大学生の希望就職企業では理系、文系ともに「東洋レーヨン」が第1位だったのです。ナイロンの製造技術の導入によって、東洋レーヨンは名実ともに、収益は、なんと、日本銀行をも抜いて日本一の会社でした。
東京オリンピック開催。日本中がオリンピック景気に沸き、新幹線、東京の高速道路など巨大工事が実行されました。カラーテレビによるオリンピック中継など、オリンピック開会式の10月10日、会社は臨時休日です。
この日から体育の日として国民祭日となりました。 |
3.合成繊維の現場経験(昭和39年〜)
現場実習教育がおもしろく、実習日誌に「こういうところで働きたい」と書いたら、配属があっさり、「繊維工場」となり、パイレン課になりました。
パイレンは、ポリプロピレン繊維で、軽く強いという夢の繊維です。
しかし難点は親水性が無いので染料で染まらないということで溶融紡糸するときに顔料を含浸させることで色をつけるしかありませんでした。
ダウサムという熱媒でペレットを溶融し、口金から出てくる糸はチムニーを通って冷やされます。5分もいられない熱現場の中で塩をなめなめ水を飲み、水分を補給しながら重い口金交換をジャッキで作業します。
ベトナム戦争特需で土嚢用に迷彩色に苦労したり、エクストルーダ・フィルタ・粉体工学などいろいろ勉強しました。途中でナイロンステープルも経験しています。口金修正方法やチップ安息角などの研究も思い出があります。 |
4.コンピュータとの出会い(昭和44年)
パイレンが染まらないとの決定的問題で、やがて、収束。当時、工場内にコンピュータによるEDP化がすすみ、滋賀工場にもコンピュータが導入され、要員募集に「管理室」へ異動しました。ここが私の会社内最大のターニングポイントだったと思います。
私の誕生日は、1946年2月15日。アメリカのペンシルバニア州で世界初の商用電子計算機「エニアック」が発表された日です。コンピュータと同年齢であり、コンピュータの進歩のすごさに圧倒されます。
石山駅に日本電気の工場があり予備教育もNECからあったため、コンピュータもNECの予定が突然、富士通に変わりました。東レのコンピュータの系列はここで富士通系と運命づけられたのでしようね。
「FACOM230−25」という富士通のベストセラー機で、メモリ、外部記憶容量(磁気ドラム)、CPUなどは現在の一番安いパソコンに到底及ばないでしょう。OSはBOS、言語はCOBOL。モニターは無し、タイプライタのようなコンソール卓だけが唯一のコンピュータとのインターフェースです。プログラムは紙テープに穿孔し、毎回読ませて、コンパイルしてから実行です。データも紙テープです。 |
5.IBMのメインフレームとの出会い(昭和45年)
各工場から研修実習のためにシステム部大阪に派遣され、半年勉強しました。ユニバックのボードコンピュータ、IBMの360−40に出会い、ここでパンチカードによるプログラム、データを経験しました。
この年、大阪万国博覧会で、前年のアポロ11号の持ち帰った月の石がアメリカ館で好評でした。 |
6.工場コンピュータシステムの開発(昭和46年〜)
工場長直轄の管理室、経理課などの職場を変遷し、一貫してコンピュータとつきあってきました。
生産、経理、研究、工管など多くのコンピュータシステムを計画・開発しました。
コンピュータも変遷があり、非常に多くの機種、OSを経験しました。
主なトピックスとして、
・ライトペン端末による生産計画配台オンラインシステムの開発・ミニコンによる繊維操業管理システムの開発・情報センターとの紙テープ集配信システムを完成。全工場で採用。
・原糸原綿生産計画全社システムを完成。全工場で採用。
・OMRプログラムで創意工夫功労賞科学技術庁長官賞、社長賞受賞。
・FACOMファミリ会論文集の8集と12集で入選。
・花文字プログラムを完成。帳票出力の最初に出るバナーです。
東レ情報センターでの出力バナーは今も私のデザインかも。
・工場入出庫管理システムの開発・北陸の東レ関係会社へのEDPS化教育、支援・東芝OCR端末の全社導入プロジェクト・滋賀工場、瀬田工場へのパソコン導入教育講師・BASIC言語との出会い(AppleII、PC−9801など、いわゆるマイコン時代の到来)
この間、社名も「東レ」に変わったり、滋賀に情報センターが建設されたりの歴史があります。 |
7.システム部へ(昭和58年)
全工場からコンピュータ要員をシステム部へ異動させる第1号?で、システム部へ移りました。滋賀工場内に情報処理センターがありましたから、同じ工場内です。 |
8.オプチカル製造システムへの参画(昭和58年〜)
滋賀工場内にめがね用レンズの製造工場が建設され、全国のめがね店からの注文に対し、QRで製造/出荷するという生販(生産販売)一体システムの構築メンバに参画しました。
納期が非常にタイトな中、レンズの原料の抽出、研磨、表面加工、出荷まで個人毎の左右違う度に合わせて受注から製造指示、検査、出荷など、新しい端末、データベース構築など、いろいろ工夫が必要でした。そして、わずか1年の開発期間に威力を発揮したのが、プログラムの徹底的なパターン化でした。オンライン、バッチそれぞれにプログラム雛形を用意し、それを組み合わせて一連のジョブを作り上げるというものです。ジャクソン法のようなものですが、非常に効果はあり、短期の間に、巨大なシステムがスタートしました。この間、エンドユーザによる帳票自動作成ツールや、トラブル時の自動再処理システムなど、私の多くのアイデアが生かされました。今は、東レはレンズ事業から撤退しましたが、この時のシステムのノウハウを生かさないのは惜しいと思います。 |
9.社外システムの担当(昭和60年)
東レ(株)システム部が独立して(株)東レシステムセンターとなり、NECの案件で、部品供給、ピッキング、配膳システム、MRPなどを勉強しました。そこへ、TEKから沼津のR社の複写機ドラムの自動塗装ラインの制御システムを担当することになりました。考えてみれば、私がFAシステム(FactoryAutomation)づいたのも、これがきっかけで、大きなターニングポイントです。6ヶ月間、東レ三島工場での長期出張でした。
ここで、初めてFAコンピュータ、ベルトコンベア、リアルタイムBASIC言語、シーケンサーメモリ管理、ロボット言語、通信、デジタル入出力、アナログ入出力など非常に多くのFAのテクニックを学びました。防爆区域、クリーンルームでの作業など、最初に経験したFAが殆どのFA現場の要素を含んでいたことも非常に良い経験といえます。長野県で日航機が墜落、500人以上が亡くなったのもこの年です。 |
10.社外のシステム中心に担当(昭和60年〜平成6年)
なぜか、東レの外を中心に仕事をするようになりました。性格的に、なかなか社交性も無い自分が、堂々としゃべれるようになったり、「ございます」ということばが自然に出るようになったのも、将来、営業がなんとか一人前にできるようになったきっかけです。そういう意味でいろいろ、外を経験するのもいいことだと思います。いくつか思い出す担当システム。
・Y社CDプレーヤ製造工場のロータリー自動倉庫システム(浜松)
・K社タンクローリー出荷コントロールシステム(鹿島)
・S社重合工場工程管理システム(鹿島)
・S社操業管理デリバリーシステム(君津、戸畑)
・F社統合OA開発(東京)社長賞
・M社工程制御システム開発(兵庫県)社長賞
・K社操業工程管理システム開発(大阪)
・K社ホスト通信FTPシステム開発(兵庫県)
・M社NC加工稼働支援システム開発(兵庫県)
・東レレンズ加工ドイツOS対応(滋賀)
・N社製造工場プロコンゲートウェイ開発(大阪)
・K社製造ラベル発行開発(大阪)
・K社電解槽集中管理システム開発(兵庫県)
・S社製造板貼・注入・入出庫システム開発(滋賀)
・東レ名古屋電気設備管理システム開発(名古屋)
・S社外注成型支援システム開発(滋賀)
・N社製造管理システム(茨城)
昭和63年(1988年)に会社からCOMDEX見学にアメリカ旅行に行かせていただきました)
当時、Windows3.1中心の話題でもちきりで、ロサンゼルス、サンフランシスコなど。アナハイムのディズニーランドやグランドキャニオンなど、規模にビックリしました。 |
11.東京長期出張(平成6年〜7年)
TRCが収束するシステムをTSCで引き継げるか、商売としてやっていけるかの調査で6ヶ月長期出張で東京で業務という話が降ってわきました。
日本橋のTRC(都ビル)でいっしょに仕事をしながら初めての業務に戸惑いながら、いろいろ勉強しました。見る物聞く物全てが初体験でした。放射能って。血液検査って。細菌検査同定って。そして、自衛隊横須賀基地での入退管理システムなど。世の中に、こんな仕事もあったのか、そして、東京だからある仕事の数々。F社統合OA開発では、週に1回始発東京/終電滋賀を1年間続けて東京には少しは慣れていたのに、飛び込んでみてショックでした。何でもかんでも東京に集まっている。1月17日に、あの、阪神大震災が発生、自宅から東京へ行くのに夜行バスで、からがら出勤しました。 |
12.東京本社へ異動(平成7年)
長期出張が終わったのですが、まさか、本当に、TRC業務を引き継ぐべく、東京転勤になってしまいました。30年間、仕事ひとすじ、家庭を省みず、死直前の母の病床でもプログラムロジックを考えていたような私は、そろそろこれから家族孝行と思っていたら、なんと、東京転勤です。
単身赴任というのは入社以来、初めての経験。長期出張の時、住まいした深沢寮だから、この間、ご挨拶して出てきた寮のおじさんに、今度は、「しばらくよろしく」です。まだまだ、都ビルでしたが、そのうち、浦安へ居座ることになりました。地下鉄サリン事件を運良くクリアしたのですが、深沢寮のすぐ近くに小沢一郎さんが住んでいて、オウムが狙っているとかで、いろいろ大変でした。地方から初めて東京に移り住むと何かの病気にかかると言われます。私の場合も、洗礼を受けました。猛烈な倦怠感、悪寒に襲われ、寮の管理人さんから、「死人みたいな顔してる」といわれ、とにかく医者に行きました。「マイコプラズマ肺炎」なんて病名は初めて聞きました。
俗にいう「オリンピック風邪」とかで、4年ごとに流行するとか。白血球が異常に増加、点滴など、10日ぐらい悩まされました。
TRCといっしょに、東海村の動燃、原研、島根県など実に多くのお客様を巡りました。青森県の六ヶ所村など、まさに、「原子力船むつ」の最後の日に現場に立ち会ったのも強烈な思い出です。TRCは完全にシステム開発/販売事業から撤退することになり、いよいよ、TSCで業務を受け、自立して開発していかねばなりません。TRCのつきあっていた商社長瀬産業、長瀬ランダウアとも引き続き販売元としてつきあっていくことになります。アロカという会社から仕事をもらっていた血液分注システムは、TRCの対応が悪かったため、結局、この業務は断絶となり、長瀬グループの放射線管理だけが頼みの綱となりました。私としては、血液分注の方が、PC、ロボット、汎用コンピュータ、通信など、FA的知識が生かせるので、非常に残念で、惜しかったです。長瀬グループ関連は、放射線管理システムでした。
FA的なところって何にも無い。幸い、放射線管理区域の出入り管理システムも長瀬ルートで提案できるので、ここは、通信システムで、唯一のFA風です。
秋に現在の主力ソフトである、RI管理ソフト「RIMA」シリーズを設計、寮での数日の徹夜が今、花を開いています。
この年、Windows95が発表されました。 |
13.放射線管理システムの営業(平成8年〜)
茨城県東海村を始め、青森県、島根県、兵庫県、鳥取県、岡山県、大阪府、福岡県、京都府、宮城県、山形県、新潟県など、非常に多くの地域へ営業に行かせてもらいました。TRCから引き継いだ放射性同位元素化合物(RI)の在庫管理システム、管理区域入退管理システム、環境放射線測定管理システムを3本柱として、受注しながら開発改善を続け、平成8年11月のRIMA、GATEを正式パッケージとして世に出しました。
verupを重ね、今は成熟した製品として、業界標準たるべく、さらに磨きがかかっていくでしょう。 |
14.環境システム課として(平成10年から)
平成9年と、とりわけ11年は、課始まっての業績をあげることができました。来る西暦2000年問題対応ということで、各社に予算がつき、駆け込み需要となったものです。正式に「環境システム課」として発足、放射線管理以外にも環境に関するいろいろな事業を始めました。PRTR、MSDS、産業廃棄物、毒劇物管理システム、介護システムなど各種の事業を起業・展開しましたが、なかなか、営業体制が無く、苦戦しています。
平成12年(2000年)の1月に中国北京に出張、放射線をはじめ、各種の環境システムを化学院など国に対してプレゼンテーションする機会がありました。マイナス15度という超低気温を経験しました。ちょうど、この時、久里浜の自衛隊で、TRCから引き継いだ、入退管理システムが2000年問題を起こし、対応に苦慮しました。社内でも各部が暮れから正月にかけて、会社に詰めて、臨戦態勢を引いていました。2000年問題に続いて、4000年に1度という、大例外うるう年問題が2月29日から3月1日にかけて問題を起こし、これの方が被害が大きく大変でした。 |
15.滋賀へ戻る(平成13年から)
約7年の単身赴任を解消し、再び滋賀へ戻って来ました。
二度と、滋賀には戻って来ないだろうと思っていたため、複雑な思いです。
組織的に、たった一人でやっていくということも、気楽ではあるが、なかなかつらい立場にあります。とりあえず、浦安から持って来た事業として、「環境支援ソフトウェアパッケージ」を中心に進めていますが、1本も売れた実績が無いだけに、非常に難しい状況にあります。長い間営業して来た、東レ殿向けのMSDSデータ管理システムがようやく受注できましたが、平成14年4月から本番スタートという納期で、受注したのが10月中頃。コンペチがあったため、最後まで着手していず、これから設計して開発までというメチャクチャなスケジュールです。東京の超高スキルの外注会社を見つけ、担当メンバも増え、始めました。これなら、「東京にいた方が良かった」という心境で、何度も東京に足を運び、基本設計、詳細設計、開発と、仕様の動きを抑えながら開発会社からのクレームを甘んじ、とにかく進める毎日。平成13年の12月、平成14年の1月、2月は、それぞれ、日数の少ない月であり、厳しい状態が続きました。3月には、情報センターに徹夜・徹夜という、もう何十年ぶりの経験をしました。昔は、こんなことが当たり前だった。 |
16.環境関係のパッケージと中之島三井ビル(平成14年)
廃棄物管理、PRTRなど、法律によって、いよいよい環境元年と言われるが、景気が最悪で、どんなに企業倫理と言っても、とても、環境に金を出すところは少ない。本来なら、最も注目される分野ですが。薬品管理システム、廃棄物管理システムなどの納品(業者品の扱い)で、環境に関する法律など貴重な勉強をしました。大阪の中之島三井ビルの新築にあたり、一昨年から営業していた入退防犯システムが、3社コンペチの末、受注できた。これも、既にパッケージとして実績が多いコンペチに対し、無謀にも勝ち取ったプロジェクトで、松下電工エンジニアリングさんに顧客との間に入っていただいたものの、反省・後悔のつらいジョブだった。過去に最も厳しい仕事だっただろう。ゼネコンとの葛藤、業者とのつきあい、トラブルの発生、納期遅れの詫びなど、全て、一人作業で、毎日が気のおけない苦しい毎日が続きました。工事現場への入場などは、過去のFAシステムの経験から何とも無いが、この巨大ビル建築現場の経験は特別です。大型タッチパネルを内蔵した非接触ICカードリーダを各フロアのテナントの入口、エレベータ内など、約200台を設置。管理センターのサーバでグラフィック集中管理システム。各種のセンサとの連携、建物工事との進捗管理など。非接触ICカードが、たまたま中之島三井ビル向けのロットだけ不具合があり、これを巡って、ものすごい問題に巻き込まれた。8月にテナントが引っ越しされ、ようやく大きなプロジェクトが終わったという気持ちでした。このビルに入るたびに、いろいろ思い出されるでしょう。
東レ(株)の鎌倉に新築されたナノテク研究所の入退管理システム(非接触ICカード)も担当し、いい記念になりました。 |
そして、平成15年4月30日、東レ株式会社を退職へ。
仕事のリセット。新しい会社で、全く違う仕事をさせてもらっています。
業務の記録まとめ(主な50のプロジェクト)
|
教野業務経歴 |
|
|
|
システム名称 |
時期 |
|
|
入社以後、5年間、合成繊維部門内で、現場改善・製造技術に関わる。 |
1964年 |
〜 |
1 |
工場にコンピュータ導入に伴い、工場内EDP化に携わる。 |
1969年 |
〜 |
1970年 |
2 |
操業管理中心の多くの開発業務。COBOL,FORTRAN,アセンブラなど。 |
1969年 |
〜 |
1970年 |
3 |
全社繊維ポジションシステム |
1970年 |
〜 |
1972年 |
4 |
画面会話型生産計画システム |
1975年 |
〜 |
1977年 |
5 |
全社生産指示伝送システム |
1976年 |
〜 |
1977年 |
6 |
工場入出庫管理システム |
1977年 |
〜 |
1978年 |
7 |
全社出荷状況問合せシステム |
1977年 |
〜 |
1978年 |
8 |
マイコン普及講師 |
1980年 |
〜 |
1982年 |
9 |
工場用品システム |
1980年 |
〜 |
1982年 |
10 |
工事システム |
1980年 |
〜 |
1982年 |
11 |
出荷確認のOCR化 |
1980年 |
〜 |
1982年 |
12 |
レンズ生販管理システムFA |
1983年 |
〜 |
1985年 |
13 |
電材入出庫システム |
1984年 |
〜 |
1985年 |
14 |
給与計算、人事システムI/F |
1984年 |
〜 |
1985年 |
15 |
複写機ドラム塗装自動監視 |
1985年 |
〜 |
1987年 |
16 |
CDプレーヤ自動倉庫管理 |
1986年 |
〜 |
1987年 |
17 |
ローリ出荷コントロール |
1988年 |
〜 |
1989年 |
18 |
統合OA−PKG設計 |
1988年 |
〜 |
1989年 |
19 |
ガスプラント操業デリバリー |
1988年 |
〜 |
1990年 |
20 |
化学重合工程管理 |
1988年 |
〜 |
1990年 |
21 |
NC加工工程制御FA |
1989年 |
〜 |
1991年 |
22 |
化学操業工程管理 |
1989年 |
〜 |
1990年 |
23 |
FTP関連通信パッケージ |
1990年 |
〜 |
1990年 |
24 |
レンズ研磨工程ゲートウェイ |
1991年 |
〜 |
1991年 |
25 |
製鉄プロコン。ホストデータ収集 |
1991年 |
〜 |
1992年 |
26 |
製鉄圧延・連鋳・化学試験データ管理 |
1991年 |
〜 |
1991年 |
27 |
NC加工装置稼働管理 |
1991年 |
〜 |
1992年 |
28 |
化学バーコードラベル発行管理 |
1991年 |
〜 |
1992年 |
29 |
化学電解槽集中監視 |
1991年 |
〜 |
1991年 |
30 |
アルミパネル入出庫 |
1991年 |
〜 |
1992年 |
31 |
アルミパネル板貼注入管理 |
1992年 |
〜 |
1992年 |
32 |
電気設備管理 |
1993年 |
〜 |
1993年 |
33 |
アルミパネル成型管理 |
1993年 |
〜 |
1993年 |
34 |
アルミパネル外注成型支援 |
1993年 |
〜 |
1994年 |
35 |
レンズ加工工程カラーラベル発行 |
1994年 |
〜 |
1994年 |
36 |
発泡生産工程管理システム |
1994年 |
〜 |
1994年 |
37 |
不織布製造工程管理 |
1994年 |
〜 |
1994年 |
38 |
針金工場工程管理 |
1994年 |
〜 |
1995年 |
39 |
血液分注管理 |
1995年 |
〜 |
1995年 |
40 |
陸上自衛隊人員管理 |
1995年 |
〜 |
1996年 |
41 |
放射線同位元素(RI)在庫管理パッケージ |
1995年 |
〜 |
1999年 |
42 |
放射線管理区域入退出管理パッケージ |
1995年 |
〜 |
1999年 |
43 |
環境放射線測定管理パッケージ |
1996年 |
〜 |
1998年 |
44 |
放射性廃棄物在庫管理パッケージ |
1997年 |
〜 |
1998年 |
45 |
海事関連化学品船舶内引き当て管理 |
1997年 |
〜 |
1997年 |
46 |
産業廃棄物移動管理パッケージ |
1999年 |
〜 |
2003年 |
47 |
PRTR化学品移動管理システム |
1999年 |
〜 |
2003年 |
47 |
薬品管理パッケージ |
2000年 |
〜 |
2003年 |
49 |
MSDS製品安全データ管理パッケージ |
2001年 |
〜 |
2003年 |
50 |
大規模非接触ICカード入退防犯システム |
2002年 |
〜 |
2003年 |
以上
|