2016年のオリンピックにリオデジャネイロに負けた東京。夢よもう一度、石原慎太郎に続いて、引き継いだ猪瀬都知事は2020年のオリンピックに再挑戦した。 |
トルコのイスタンブール、スペインのマドリードとともに3都市に絞られ、何回ものIOCに対する招致運動を実施してきた。 |
とはいえ、3都市ともハンデを抱えている。 トルコのイスタンブールは相次ぐテロ、政治不安定、スペインのマドリードは経済不安、そして、何も問題が無かったはずの日本東京はまさかの原発事故による放射能不安。 |
そして、遂に、開催国決定当日の最後のプレゼンテーションはブェノスアイレスにて始まった。 深夜、どのテレビ局もこの話題ばかり。インターネットで、イスタンブール、続いて東京のプレゼンテーションの生中継を見ながら、ウトウトしてしまったが、やっぱり4時ごろには目が覚め、テレビに見入っていた。 |
猪瀬都知事、滝川クリステルのIOC委員の心をつかんだプレゼンテーション「お・も・て・な・し」、そして、太田雄貴のプレゼン。 |
パラリンピック女子走り幅跳び代表 会長、そしてIOC委員の皆様。佐藤真海です。 私がここにいるのは、スポーツによって救われたからです。スポーツは私に人生で大切な価値を教えてくれました。それは、2020年東京大会が世界に広めようと決意している価値です。 本日は、そのグローバルなビジョンについてご説明いたします。 19歳のときに私の人生は一変しました。私は陸上選手で、水泳もしていました。また、チアリーダーでもありました。そして、初めて足首に痛みを感じてから、たった数週間のうちに骨肉種により足を失ってしまいました。もちろん、それは過酷なことで、絶望の淵に沈みました。 でもそれは大学に戻り、陸上に取り組むまでのことでした。 私は目標を決め、それを越えることに喜びを感じ、新しい自信が生まれました。 そして何より、私にとって大切なのは、私が持っているものであって、私が失ったものではないということを学びました。 私はアテネと北京のパラリンピック大会に出場しました。スポーツの力に感動させられた私は、恵まれていると感じました。2012年ロンドン大会も楽しみにしていました。 しかし、2011年3月11日、津波が私の故郷の町を襲いました。6日もの間、私は自分の家族がまだ無事でいるかどうかわかりませんでした。そして家族を見つけ出したとき、自分の個人的な幸せなど、国民の深い悲しみとは比べものにもなりませんでした。 私はいろいろな学校からメッセージを集めて故郷に持ち帰り、私自身の経験を人々に話しました。食糧も持って行きました。ほかのアスリートたちも同じことをしました。私達は一緒になってスポーツ活動を準備して、自信を取り戻すお手伝いをしました。 そのとき初めて、私はスポーツの真の力を目の当たりにしたのです。新たな夢と笑顔を育む力。希望をもたらす力。人々を結びつける力。200人を超えるアスリートたちが、日本そして世界から、被災地におよそ1000回も足を運びながら、5万人以上の子どもたちをインスパイアしています。 私達が目にしたものは、かつて日本では見られなかったオリンピックの価値が及ぼす力です。そして、日本が目の当たりにしたのは、これらの貴重な価値、卓越、友情、尊敬が、言葉以上の大きな力をもつということです。 |
こ建築家の設計する作品はあまりにもすごすぎて建設不可能というものもあるそうだが、日本の技術だからできるんだろう。、収容8万人、建設費1300億円、建設期間5年!。来年から着手。 |