富田林寺内町、大阪府立狭山池博物館 2006/11/10



東レOBの恒例バス旅行は歴史勉強を兼ねた旅。
富田林と狭山池博物館ということで、興味深い。


まず、寺内町センターでボランティアの方たちからレクチャーを受ける。


寺内町は、浄土真宗のお寺を中心に造られた町で、15・16世紀頃、近畿を中心に各地に造られました。大阪府下でも八尾市の久宝寺や貝塚市など多くの寺内町が見られます。富田林寺内町も永禄年間(1558〜69)に興正寺・証秀上人によって創建されました。上人は、「富田の芝」と呼ばれたこの地域の荒地を、当時の支配者である安見直政から銭百貫文で買い取り、周辺の4ヶ村(毛人谷〔えびたに〕・新堂・中野・山中田〔やまちゅうだ〕村)から有力者2名ずつ計8名(八人衆)を集めて、興正寺の別院と町の建設を要請しました。
町は、一段高い台地の上に造られ、周囲には土居がめぐらされ、その外側に竹やぶが繁っていました。町筋は、6筋8町で構成され、南北の通りは「筋」、東西の通りは「町」と呼ばれていました。現在、その土居などは残っていませんが、南側の石川沿いには竹やぶが残っています。


江戸時代から明治時代にかけては、この地域で収穫される米や綿などの農作物と良質の水にめぐまれ、河内木綿を扱う商家や造り酒屋など商業の中心・交通の要衝として繁栄しました。


その中でも、「杉山家」は、寺内町が造られた頃からの旧家(8人衆)で、酒屋として成功し繁栄しました。明治の終わり頃に明星派の歌人として活躍した石上露子(本名杉山タカ)が、明治15年(1882)当家で生まれました。旧杉山家住宅は、17世紀ごろに建てられた寺内町でも古い建物で、現在、国の重要文化財に指定され、内部を見学することができます。






明治時代の歌人石上露子はここの長女として生まれた。恋をあきらめ、婿養子を迎える。




大きな土間。作り酒屋をやっていた地元の八人衆の代表。


慣れた説明員さん。納得。


重要文化財の旧住宅は大黒柱、使用木材、欄間、庭など、すばらしい。




大きな花梨の木に実がなっていたのが印象的だった。


2階から。非常にせまい平面で上り下りするのに、木製の螺旋階段。これもすばらしい。


山岡鉄舟の書。


さて、じないまちを散策しょう。


東西400m、南北350mの面積に約500棟の建物がある。
そのうち180棟が江戸、明治、大正、昭和初期のもの。





実際に住んでおられる家も多い。それにしても、屋根は波打ち、柱は割れて・・・・
補修するにも個人では大変だろう。







建て替え、新築する場合は、外観を規制されているそうで、地元の人たちは大変。


郵便受け箱、積算メーターボックスなどにも焼杉のカバーをかぶせるなど、
町並み保全にはみなさんで気を使っている。



道標「くわへきせるひなわ火無用」と刻まれている。


江戸末期に吉田松陰が滞在した「仲村家」など、
当時の寺内町は、この地域の中心地として繁栄していた。



虫籠窓(むしこまど)、煙出し、あげ店、忍返し、格子、鬼瓦、駒つなぎ・・・など、
昔の民家独特の体験。



四つ角には”あてまげの辻”といって、半間ほど道をずらし見通しをさまたげる工夫。
以前訪れた和歌山の海南でも同様のジグザグ道路があった。



昔のガラス。なるほど、まるで、セルロイドを貼ったような質感。


いいねえ。この雰囲気。


観光客というか、歴史の町並みが好きな人に。
コンビニも、おみやげもの屋も全く無い。



「興正寺別院」には、筋の名前になっている寺の門、「城門」がある。
この寺内町の基本部分。



桃山城の門を移築したという。下1mを切断して設置したそうだ。



ななんだ、これは!。
PL教(パーフェクト リバティー教団)の超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念塔(通称「大平和塔」)
全高180m 展望台(高層1階)床面高135m 竣工1970(昭和45)年



今は、一般人は入れない?
来年は有名な花火を見に来たい。




食事後、いよいよ、本日のメインの狭山池博物館。






すごい水音の中を歩く。


学芸員さんの簡単な説明と、ビデオを見る。


これが、ここのメイン展示物である、堤防の断面。


7世紀始めごろに誕生したダム式のため池。


農地に供給する灌漑用水として、時代ごとのメンテナンスでどんどん堤防は高くなった。


実際の堤防の一部を切り取ってここに持ってきて組み立てた。


水を取り出す取水口。もちろん木製。




水の道は檜の大木をくり抜いてそのままパイプにしている。上に枕木のようにフタ。
こんな檜は今ではちょっと手に入らない。





断面で時代が分かる。








切り取った断面を展示中を横から。


行基の功績は大きい。


朽ち果てた材木。



鎌倉時代に僧「重源」が大改修を実施。
もっとも痛みの激しいパイプ両端に木から石を使用。何と思います?。石棺を掘りだして使ったのだ。



片桐且元の考案した樋と木製枠工。




昭和の取水塔。巨大なコンクリート建造物。








水の取り出し。




狭山池の治水の範囲。少し高い場所なので、こんなに広いところまで。




実際に、狭山池を見てみよう。


いつも、琵琶湖を見慣れている我々には、ん?という感じであるが・・・




昔の人はこの堤防とと闘った。




巨大な安藤忠雄の設計。そういえば、大山崎美術館も、コンクリート打ちっ放しの同じような・・・


つれづれぐさページへ戻ります。



2006年のつれづれぐさへ