家系に、特に病気の系統は無いようなのは、親に感謝せねばならない。 50代に入ってから、自分の唯一の持病として、「糖尿病」をいただいた。理想の身長/体重で外見からは糖尿病なんて、全く縁が無いと人はいう。これも自分の不摂生から招いたこと。自分の責任ではある。 まあ、一病息災というように、何かひとつ病気を持っている方が自分の体を大事にするというので、これも思し召しと思いたい。今回、3週間の糖尿病入院の記録を、自分への戒めとして残しておきたい。 |
そもそも、入院のきっかけ。 会社の健康診断により、平成5年に滋賀県病院に1ヶ月の糖尿病教育入院。いっしょに入院した4人は今、どうしているだろうな。このときの血糖値は境界型といわれる程度で、4人の中で、自分はもっとも軽度だった。ビデオを見せられ、毎食ごとにごはんの量を計り、血糖値を測る。散歩の前後で脈拍をお互いに測りあう。このときの教育なんてきれいさっぱり忘れてしまっている。親にも糖尿病の系統は無い。30代40代時の猛烈な仕事(徹夜、ストレス)が原因であることは疑う余地は無い。昭和60年(あの日航機御巣鷹山墜落事故の年)の三島への半年の長期出張時に10kg太り、腹がかなり出ていたことを覚えている。三島のおいしい魚、食欲、そして、むちゃくちゃな仕事の毎日。最初のFA(工場オートメーション)の仕事だった。この時が糖尿病の始まりであったことは間違いない。平成7年から東京単身赴任時営業、企画開発見積もり、納品などの激職、ストレス。そして、社内産業医から順天堂浦安病院を勧められ、平成11年からついに投薬が始まる。(薬の種類も、ベイスン、グリミクロン、オイグルコン、アクトスといろいろ変わる。) 平成13年に単身赴任が終わって近くの診療所に変わっても毎月採血・投薬を続けてきた。投薬7年になる。 HbA1cは6台〜7台前後で落ち着いていたが、今年に入って8台、そして、5月に遂に9を超え、「これは大変」となった。会社の問診でも、「通院していて8台が続くなんて考えられない」と言われていたこともあり、いつもの診療所で精密検査して欲しいと紹介状を書いてもらい、6月7日に滋賀医大病院に。その場で、現在の状態を検査とのことで採血をし、HbA1cは先月よりも更に高い9台。「いつから入院できますか?」「えぇぇぇーー。先生、入院なんて、思ってもみません。仕事はどうしましょう。」「今、入院しないととんでもないことになりますよ。自分の親なら首に縄つけても入院させます」と若い医者。入院して薬からインスリン注射で様子を見る必要がある。テレビでT型糖尿病の人が常時インスリン注射が欠かせないなどを見ていたが、なぜ、U型の自分がインスリン注射を?と考え込んでしまう。 長い間、薬ですい臓に鞭打ってインスリンを出させてきたのがついに、すい臓が疲れてしまい、どんなに薬でがんばらせても「もうインスリンを出せません。かんべんして」と、すい臓が悲鳴を発するまでになっていたということ。 落ち込んで病院をあとに・・・。その日に会社へ連絡、自分の替わりを探してもらわねばならない。とにかく、6/12まで仕事をして13日から入院となった。 |