泉涌寺、即成院のあと、更に歩いて、東福寺へ。 |
摂政九条道家が嘉禎2年(1236)から、実に19年もの歳月を費やして、聖一国師を開山として造営したものです。また、京都五山のひとつで、臨済宗東福寺派の大本山です。奈良の東大寺のように大きく、興福寺のように盛大を極めた寺に・・・とそれぞれ一字ずつとって「東福寺」と命名されました。 |
豊臣秀吉は愛児鶴丸の死を悲しみ、ここに祥雲禅寺を建立し弔いました。 元和元年(1615年)大阪城が落ち、豊臣家が崩壊すると、徳川家康は秀吉と対立して滅ぼされた紀州根来の流れを受けた智積院能化にこの寺を寄進、智積院と改名されました。 その後、再度の火災に遭い金堂を焼失していましたが、昭和50年、現在の壮麗な堂宇が完成し、真言宗智山派の総本山として、全国三千余寺、三十万人の壇信徒の頂点にあります。 庭園は名園の一つとされ、中国の魯山を象って造られた池泉鑑賞式庭園です。 所蔵する長谷川等伯一門の描いた国宝障壁画の桜と楓は日本を代表する名画です。 従者控部屋にある布袋(ほてい)と子供の絵の笑いの表情は是非見て帰ってください。 |