春は晴れの日が長く続かない。昨日、明日と悪天の予想の今日だけ快晴。 今日は休み。これは、どこかへ出かけなきゃと、京都へ。東福寺周辺とした。 |
東山三十六峰の一嶺、月輪山の麓に静かにたたずむ泉涌寺。ひろく「御寺(みてら)」として親しまれている当寺は、天長年間に弘法大師がこの地に庵を結んだ事に由来する。法輪寺と名付けられた後、一時仙遊寺と改称されたが、順徳天皇の御
代(健保6年・1218)に当寺の開山と仰ぐ月輪大師が時の宋の法式を取り入れてこの地に大伽藍を営み、寺地の一角より清水が涌き出た事により寺号を泉涌寺と改
めた。この泉は今も枯れる事なく涌き続けている。 大師は若くして仏門に入り、大きな志をもって中国の宋に渡り深く仏法の奥義を究められた。帰国後は泉涌寺に於いて戒律の復興を計り当寺を律を基本に天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺として、大いに隆盛させた。時の皇室からも深く帰依せられ、仁治3年(1242)に四条天皇が当寺に葬られてからは、歴代天皇の山稜がこの地に営まれるようになり、爾来、皇室の御香華院(菩提所)として篤い信仰を集めている。当寺が「みてら」と呼称される所以である。 境内には仏殿・舎利殿をはじめ、天智天皇以降の歴代皇族の御尊牌を祀る霊明殿などの伽藍を配し、春の新緑、秋の紅葉には一段とその美しい姿を映えさせている。 |
戒光寺が泉涌寺の山内に移転されたのには次のような不思議な理由があります。 江戸時代初期第108代御水尾天皇が東宮の時、即位争いが起き、東宮は常に暗殺の影に脅かされていたそうです。とうとうある夜、刺客により暗殺を受けてしまいます。しかし、東宮の代わりに血を流していたのは当山の丈六釈迦如来像であったそうです。東宮はその後無事に即位され、以後も事ある毎にお身代わりに立たれ、歴代天皇の中でも極めて長命な85歳の天寿を全うされ御崩御になられたそうです。このような理由で皇室とかかわりの深い泉涌寺の近くに移転し、萬歳の后迄崇め奉らんと思し召されたそうです。また、奇しくもこの地は開山上人の開創されたもう一つの寺、東林院のすぐ近くでした。 |
◆本尊丈六釈迦如来像(重文) 鎌倉時代の仏師 運慶・湛慶親子の合作。宋風をおびた極彩色の木像・寄木造で重要文化財に指定されています。身の丈は約5.4メートル、台座から後背部を入れると約10メートルにもなり、長い爪や流麗な衣など仏画から抜け出してきたような大仏様です。 首の辺りから何か流れている様に見えるのは、血の跡だといわれています。これは後水尾天皇が即位争いに巻き込まれ暗殺者に寝首を掻かれた時に、この釈迦如来が身代わりにたたれ、ついたものだといわれています。 この事から、身代わりのお釈迦様と呼ばれるようになり、「悪しき事のお身代わりになって下さる」又、「首から上の病気、のどの病気を治して下さる」と崇められ、大きな仏様という意味で「丈六さん」と呼ばれ親しまれています。 |