廃寺となり、荒廃した寺を守るため、みなさんが努力され、昨年9月に、国の史跡に指定を受けた。 我が家からバイクで5分。 普段は固く閉ざされた由緒あるこの寺跡。一日のみ一般公開するというので訪れた。 |
サイトから引用 【現地の状況】 現在では湖岸は3kmほど先になっているが、当時はこの辺りが湖岸であったという。観音寺はこの辺一帯における琵琶湖の航行権を握り、運上金をとっていた。 表門の造りは堀と石垣で固め、寺というのは名ばかりで、まさに城郭である。住職兼湖水奉行としての格式を今なおとどめている。 【城郭の歴史,その他情報】 芦浦観音寺9代目の住職詮舜は秀吉の信任厚く、四万六千石の高禄を受け営事奉行,湖水奉行並びに地検奉行を兼ね、信長に焼き討ちされた比叡山の再建に大きな役割を果たした。瀬田唐橋の増築の管理や、伏見築城の奉行までしたという。 信長もこの芦浦観音寺だけは格別に扱っていたという。それも観音寺が支配する舟を利用する価値を見いだしていたと思われる。観音寺は天台宗であるが、焼き討ち・焼失を免れている。 【見所】 表門および外周を取り巻く堀は、これが寺かと云わせるに十分だ。 その他の遺構として、貞享2年(1685)に永原御殿の建築物の一棟が書院(重要文化財)としてのこされている。 |
多くの宝物(絵画、彫刻、工芸品)を所有している。 無人の状態であり、博物館などに預けており、写真パネルで。 古文書は室町から江戸末期までの数千点という。 そのうちの四百点は「観音寺文書」と呼ばれ、県指定文化財として、秀吉、信長、家康、光秀など戦国武将の直筆として名高い。 |