次男の美容師試験合格を祝ってやりたく、高松日帰りを計画。長男の車で行くことになった。 4時までに高速に乗れば料金が安いとかで、朝3時半に起きて出発。まだ真っ暗の道をひた走る。 |
高松市仏生山町の下には、千数百年前、隕石が衝突してできた直径約4キロ、深さ約2キロの巨大なクレーターがあり、そこにはたくさんの水が溜まっており、地下300mからくみ上げたお湯を使っているという。 泉質は中性低張性冷鉱泉(メタケイ酸)です。毎分270リットルも湧き出す豊富な湯量。 |
中国四川省から切り出した一枚岩をくりぬいた岩風呂と信楽焼の壷風呂がある。 1日おきに男湯と女湯が交代しているそうだ。今日は岩風呂が男湯だった。 |
第10景「一の谷の合戦」
寿永2年(1183年)、木曽義仲の軍勢が都に迫り、平家は幼少の安徳天皇を奉じて都を落ちた。 しかし、入京した義仲は、後白河院と対立し、院は源頼朝に義仲を追討を命じた。 頼朝は、二人の弟、範頼(のりより)と義経を大将として軍勢を差し向け、義仲は近江で討ち死にした。 一方、九州・太宰府まで逃れた平家は、やがて屋島に本拠を構え、いまの神戸福原の一の谷に堅固な城砦(じょうさい)を築き、多くの軍勢を集めた。 翌寿永3年2月、源氏は一の谷の攻撃を開始した。平家も必死に防戦していたが背後に回っていた源義経の3千余騎が鵯越えの崖上から急斜面を駆け降りて奇襲をかけたため、難攻不落と見えた城砦もついに落ちた。 平家は総崩れとなり、再び、屋島へ落ち延びていった。 |
第2景「平家に非ずんば人にあらず」
忠盛の嫡男、平清盛は、保元・平治の乱での目覚ましい勲功により平治の乱から僅か八年で、ヒラの参議から十一位、太政大臣という最高の位に昇った。同時に一族の多くの者たちも高位高官に就き、武力をもって専横に振る舞うのだった。 清盛の長男、重盛も40才で正二位内大臣左近衛の大将にになった。その長男、即ち平清盛の孫維盛は、24才のとき、従二位右近衛の中将になった。また、平家一門の人々が、安芸の国など30数か国の国守となり、全国の半ば以上を支配した。 更に、清盛の妻の妹と後白河院との間に産まれた皇子が高倉天皇になると、清盛の娘の徳子(とくし)を高倉帝に入内(じゅだい)させて皇室との繋がりを固くした。これには眉をひそめる人が多かった。 清盛の家は、もともと皇后や中宮を出す家柄ではないからである。 しかし、清盛の娘、徳子の産んだ皇子は、三才で即位して安徳天皇となるのである。 こうして平家一門が権勢を欲しいままにする中で、大納言・平時忠などは、「此の一門にあらざむ人は皆人非人なるべし」と高言するほどで、世はまさに平家一門のものであった。 |
第12景「那須与一、扇の的を射る」
寿永4年(1185年)2月、讃岐屋島へ逃れた平家を追って、義経は海路阿波に上陸、陸路屋島に迫り、背後から平家を急襲した。 驚いた平家軍は、船に乗って海へ逃げたが、源氏軍が案外少数と知って応戦し激しい攻防が繰り返された。 日が暮れて両軍が兵を引きかけている時、沖の平家軍から年若い美女を乗せた小舟が一艘漕ぎ寄せてきた。 美女は、紅地に金の日輪が描かれた扇を竿の先にはさんで船べりに立て、陸の源氏に向かって手招きをしている。 これを見た、義経は、弓の名手・那須与一宗高に扇を射抜くよう命令した。 与一は、馬を海に乗り入れたが、扇の的までは、まだ40間(けん)余り(約70メートル)もあり、しかも北風が激しく吹いて扇の的は小舟と共に揺れている。 「南無八幡」と心に念じた与一が渾身の力で鏑矢を放つと、矢はうなりを立てて飛び放たれ見事に扇の要近くに命中。扇は空へ舞い上がり、ひらひらと海へ落ちた。 この様子を固唾を飲んで見守っていた源平両軍は、どっと歓声を上げて与一を褒め讃えたのであった。 |
第13景「安徳天皇、入水」
屋島の合戦に破れた平家は、瀬戸内海を西へと逃れ、関門海峡近くの彦島に水軍を結集した。 元暦(げんりゃく)2年(1185年)3月24日早朝、いよいよ壇の浦で最後の決戦がきっておとされた。 はじめのうちは、平家が優勢であったが、四国・九州から集めた豪族達が源氏へ寝返り、更に潮の流れが逆になると共に形勢が逆転して源氏が優位に立った。 潮流に乗った源氏の怒濤の攻撃に圧倒された平家軍は壊滅状態となった。 幼い安徳天皇らと共に小舟に乗っていた清盛の妻、二位の尼は、もはやこれまでと覚悟を決めた。 二位の尼は、帝に東へ手を合わさせ、西に向かって念仏を唱えさせると、涙をながしながら帝を抱き上げ、「波の下にも都がございますよ」とお慰めして海に身を投げ、波の下へと沈んでいった。 |
第17景「琵琶法師」
ものがなしい琵琶の音色(ねいろ)。感情あるれる巧妙な語り口。 平家物語は、琵琶法師の「語り」を媒体とする特殊文学として伝承されてきた。 室町初期の京都には、数百人の琵琶法師がいて多くの民衆に諸行無常の物語を語り聞かせていたという。 しかし、その作者や成立年代については、諸説があって、現在も確定していない。吉田兼好は、「徒然草」の中で、後鳥羽院の頃に信濃前司行長(しなのぜんじゆきなが)が創作して音楽的な節をつけ、盲目の法師に語らせたと書いているが他の名前を挙げているものもある。 恐らくは、鎌倉時代に原形がつくられ、その後に手が加えられてきたのであろうとされている。 |
おととせんべい タコや小魚を丸ごと使って焼き上げたせんべいです。 わたしなどは「おととせんべい」と聞けば、おもい出すのはむかし駄菓子で売っていた子どもの顔よりも大きな、たこせんべいやえびせんべいを想像してしまう。それらのせんべいはいかにも着色剤入りというようなクドイ色をしたしろものだった。しかしこちらの方の「おととせんべい」は、そんな着色剤や添加物入りせんべいじゃなくて、うんとナチュラルテイストのせんべいだ。 海の幸が豊かなことで知られる瀬戸内海。讃岐・高松で身近にある新鮮なタコやエビ、小魚を姿そのままに、せんべいにして売り出されたのがこの「おととせんべい」です。 大正時代に高松の名物として作られていたものの、それ以降に販売力のある大手のスナックにとって替わられたのでしょうね。近年、最後のお店が姿を消してからは、知る人ぞ知る幻の味に成っていたそうです…。 その伝統を守りたいと、27歳の若い店主がこのせんべいを復元した。昔ながらの作り方はそのままに、さらなる工夫を凝らして、誕生した“おととせんべい”の店「象屋元蔵」です。 タコ、エビみそ、かえりちりめん、ゲタ、メバル、キスなど、季節によって変わる種類もお楽しみです。 見た目のインパクトも面白い、タコや小魚は乾燥させることで、うま味が凝縮し小さくなるのだろう、まるで魚拓のように封じ込められた姿そのままに1枚1枚すべてが手焼きです。海から上がったその日の内にせんべいするそうである、焼き上がった後、最後には炭火であぶって香ばしく仕上げるそうです。酒のさかなに、ヘルシーなおやつにと素材の持ち味を活かしたスローフードですね。 このような若い店主がやっていることにいまの時代の変化を感じる。この店主がいいね、坊主頭がタコと重なってなんかかわいらしい。昭和初期を思わせる店内、そこではゆったり時が流れて、いまでは珍しい座売り形式だそうで、またこれはこれで楽しい、ひととひとが対面して商売をする「おととせんべい」に似合っている気がします。 また地方発送もできるようなのでお土産や贈り物として、相手を選ばず活躍してくれます。 |
長男のレガシーに装備されたすごい性能のナビシステムに感心する。若いギャルの声で「右です」とか、「あと200メートル行くとXXXです」とかかなり親切。リアルタイムな渋滞情報など自然な声で発声して驚き。まるで意識があるように思える。地元に詳しい次男が近道を行くのにナビギャルが「右です」と言っているのに左へ行ったら、ナビキャルが混乱してしばらく無言になってしまった時は本当に腹をかかえて笑ったものだ。 |