昭和39年の入社。繊維製造工場での3交代、日勤。製造技術部門。経理課。 管理室などを経て、コンピュータ部門に手を染めることになったのが、私の最も大きな転換期であった。 滋賀で東レ内工場コンピュータ化聡明期の1970年ごろからコンピュータに関わり、工場内のEDP化、工場コンピュータ再編成、システム部との連携。システム部へ異動後は全社生産計画、そして東レシステムセンターでは、もっぱら東レ外の純粋FAやOAパッケージ設計などを手がけて来た。 IBM・富士通・NECなどの大型中型コンピュータ、富士通・NECのオフィスコンピュータ、三菱・IBM・富士通などのミニコン、横河電機・山武・三菱の工業用コンピュータ/DCS、東芝のワークステーション、オムロン・三菱・横河のシーケンサ、三菱のロボット、そして、富士通・NEC・シャープ・IBM・松下・コンパック・ソード・アップルなどのパソコンと、ありとあらゆるコンピュータを経験してきた。アプリケーション開発では、基幹業務から在庫管理、製造工場のFAシステムまで、多くの言語で千本以上のプログラムを製作した。 今、会社生活あと5年という段階において、浦安から再び滋賀へ戻ろうとしている。 |
1994年秋にTRCの医療システム販売事業の引継ぎ調査の指示で、東京長期出張。 1995年の6月から正式に浦安転勤に。当初2年は日本橋のTRC常勤。 この年は、阪神大震災、地下鉄サリン事件など、いろいろ関西・関東両方で大きな事故・事件が多かった。 |
<TRCから引き継ぐのは「血液分注システム」といって、汎用機の検査の分注計画と血液分注ロボット制御だから、FAのようなもので、今までのノウハウは生かせる>と説得されて来たものの、それも、細菌同定システムも無く、一番考えていなかった放射性同位元素(RI)の在庫管理システム中心の引継ぎとなってしまった。 FAとはなんの縁も無い、事務システムである。在庫管理といっても、刻々飛散減衰する放射能自体の在庫管理ではないか。生き物の在庫管理で、これを一部使ってまた戻すとか、複数に小分けするとか、それをずっと、トレースしなければならないなど、相当難しい。放射線、減衰計算、被ばくなどの全く未知の業務知識、専門用語と格闘する日々。あまりにも特殊な業務の営業に顧客の先生の試すような質問にもひるむことも。 それも、それなりの勉強が必要。 |
そして、1995年の秋に「Windows95」が鳴り物入りで登場。TRCが細々と開発して来たAPCS配下でのRIMA2000の、「Windows化」の錦の御旗を立て、プログラムの設計に入った。長年のテーマ「パッケージとは何か」の持論をかなり生かせながら、全く新しいパッケージを1996年秋の学習院大学での放射線管理者年次大会で発表できた。 1995年〜1996年が最もきつい時期であった。寮での徹夜設計を何日も経験した。 最初から「パッケージ」を意識した物作りは自分の長年の夢であり、題材は何でも良かった。 |
放射線管理主任者年次大会、保健物理学会、理工学における同位元素研究会、製薬カンファレンス、コムデックス、国際環境展、滋賀環境ビジネスメッセなど、約20数回の展示会を経験した。展示レイアウト、カタログ、配布用体験版フロッピー・CD−ROMの作成など多くのノウハウを得た。展示会場では、コンペチ会社製品の偵察などでお互い触発されることも多い。 |
自分のような者が営業として、やってこられ、それなりに、営業員らしい所作を身につけて来たのも、やはり、営業のプロである商社・長瀬産業、長瀬ランダウアとのつきあいと、膨大な営業出張、納品作業の経験によるものであろう。 毎年の放射線管理者年次大会、製薬カンファレンスに参加すると、多くの企業、大学の先生と顔なじみであることを感じる。RIMAの顔として名は売れて来た。6年もの積み重ねである。 環境システム課のホームページを早く立ち上げ、メールを交わした顧客に数年後に訪問して初めて顔を合わすなどの場面もあった。茨城県東海村はもちろん、北は旭川、南は福岡、そして、岩手、仙台、山形、新潟、島根、鳥取、岡山、宮崎・・・・と、飛行機による出張も多く経験させていただいた。出張報告書を数えてみると、約800枚にもおよぶ。また、毎年出す年賀状は350枚である。各国立大学、多くの企業、そして、核融合をはじめ各原子力研究所、原子力発電所、自衛隊駐屯地など、滋賀にいたら、何十年かかってもありえない多くを、わずか6年で経験した。 |