友との別れ 2001/02/17



 2月11日に、親しい友人HKが亡くなった。
 入社後、管理室、経理課と同じ職場で一緒に働いた仲間である。
 今年の1月5日に、富士通からの営業の帰りに、JR大津駅で偶然、会った。
 彼の方から声をかけてきたのだ。
 25年近く会っていなかったと思う。最初は誰か分からなかったほど、人相が変わっていた。大津駅前の寿司屋でしばらく話し、同時期の職場の仲間のK女史を携帯電話で呼び出す。結婚して主婦の身であるが快く駆けつけてくれた。
 昔の楽しい想い出を話し合い、HKはすこぶるいい気分だった。2店ぐらいはしごをして、3人の共通の上司(故人)の奥様を近く訪問しようと約束をしたところだった。
 2月11日に旧職場からの訃報にびっくり仰天。
 お通夜には出られず、告別式もとにかく、埼玉県の営業から滋賀県にかけつけるので、到着は22時。とても無理。滋賀県は積雪でとにかくあきらめ、改めて、弔問に行くことにした。
 2月17日に一人で弔問に行く。奥様も久しく会っていないが、明るかったので救われた。
 娘さん、孫とも会い、HKがいつもの居室にしているところに仏壇が据えられ、ここで話をした。奥様に、1月5日の話をすると、涙を流して喜んでくれた。
 彼は、東レを退社して、多くの苦労を重ね、体を痛めていったという。我々といっしょのころが会社生活で一番充実した時期だったらしい。
 剣道をやっていたスポーツマン九州男児の彼には、私はあこがれ、尊敬をもっていたし、好きな友人でもあった。
 K女史を含めて最も親しかった3人組が、偶然にも、巡り会い、くったくのない想い出話をしたことが、彼にとって、この上ない楽しい、最期の時だったのかも知れない。
 そういえば、なぜか、私は舞い上がっていた。これが、最期なんて思ってもいなかった。
 奥様は、神様が会わせてくれた、奇跡ではないかという。1月5日の夜は、そういえば、幸せな顔をしていたとか。糖尿病のインスリン注射、ボロボロの体に徹夜の警備員という厳しい仕事は更に、彼の命を縮めた。経済的にも崖っぷち、自己破産の経験、我々の想像もつかない重圧に耐えることは無理だったのか。
 秋葉原で、宇宙もののDVDーROMを買って楽しんでいる自分と、彼が、なぜ、このような違いになってきたのだろう。
 現実に絶望して、気短に会社を辞めるより、自分を騙して、我慢して会社に奉仕してきた方が人生にとって、良かったことなのだろうか。
 親しい友人の初めての死に会って、自分も、そういう年なんだと、深刻に思う。



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